熱いコーヒーを啜りながら、なんだか妙なことになってきたな、とわたしはまるで他人事のように思った。どうも最近のわたしは衝動で動いているような気がしてならなかった。でも、はたしてそれが好ましいのかどうかはわたしの理解を超えたところにあった。時間はぎこちなく流れた。ただビートルズだけが黙々と彼らの歌を歌い続けていた。
アキラ君は落ち着かない気持ちを紛らすかのようにわたしの部屋のいろんなところをそれとなく眺めていた。その様子を見ていて、わたしはなんだか凄く恥ずかしくなってきた。
「でも、本当に驚いたよ。まさか彩ちゃんが隣でずっと暮らしていたなんて」とアキラ君がコーヒーカップを手に持ったまま感慨深く言った。
「全然気づかなかった?」とわたしは訊いてみた。
「ああ、全く。電話の声とかが聞こえてきたら分かったかもしれないけど、しーんとしていたから」
「まあね。あんまりここの電話使ったことないわね、考えてみると」
「地味な生活してるんだ」
「そう、地味な生活してるのよ」
「たとえば、本を読み耽ったり」と彼はわたしの本棚を眺めながら言った。そこにはわたしが大学に入ってから買い漁った本やCDがまだそれほどの数ではないけど並んでいた。
「そう、本を読み耽ったり」
彼はコーヒーカップに少し口をつけ、一呼吸置いた。「俺も読書は好きだよ」
やがてスピーカーから「ノルウェイの森」が流れてきた。
「『ノルウェイの森』、か」とアキラ君は言った。
「わたしこの曲すごい好きなの」とわたしは言って少しだけボリュームを上げた。
「とても切ない話だったな」
「え?」
「いや、小説の方だよ。村上春樹の『ノルウェイの森』。彩ちゃん、まだ読んだことはない?」
「うん...」
「そっか。じゃあ、貸してあげるよ」と言って彼はわたしの部屋を飛び出し、30秒と経たないうちに文庫本と、そしてエレキギターを抱えて戻ってきた。
「はい、これ。暇なときにでも読んでみるといいよ。しばらく持ってていいよ」
「ありがとう」とわたしは彼から文庫本を受け取った。それは相当読み込まれているらしく、端々はボロボロになっていた。
「で、アキラ君。ギター持ってきたのはいいけど、何でエレキなの?」
「アコースティックは響きすぎて、夜に弾こうものならすぐに強制退去処分を食らうよ」と彼は苦笑しながら言った。「エレキはアンプに通さなければペラペラの音しか出ないから」そしてエレキギターを爪弾いてみせた。たしかにこの程度の音量だとだと夜に弾いても、うちのマンションならまず苦情は来ないだろう。わたしはCDプレイヤーを停止した。
「何か歌って」
「いいよ」そういって彼は「ノルウェイの森」のイントロを弾き、そして小さな声で歌い始めた。わたしはコーヒーを時々啜りながら、アキラ君の歌にじっと聴き入っていた。最後にはわたしもユニゾンで歌っていた。
「どうも酔っていて上手くいかんなぁ」と彼は照れながら言った。
「ううん、そんなことないよ。とても素敵だった」
「ありがとう」と言って、彼はすぐに次の曲を弾きはじめた。「tears in heaven」、エリック・クラプトンだった。
「すごーい、すごいじゃない。わたし、ちょっと感動しちゃったよ」
「静かな夜に酒でも飲みながら静かに弾くのが合うんだよ、この曲は」と笑いながら彼は言った。「ちょうど今みたいに」
「お酒、もうちょっと飲もうか」
わたしは冷蔵庫の中から、安物の赤ワインを取り出し、二つの普通のコップにそれを注いだ。
「これだけ飲んだら、今日はぐっすり眠れそうだな。どうせ明日は午後まで授業はないし」
「そうだね」そして二人であらためて乾杯をした。
「彩ちゃん」と彼は右手でギターの弦を弄り、左手にコップを持ちながら言った。「こんな事訊くのは何だけど」
「なーに?何でも訊いてよ。酔っているんだし」
「さっき、舞子ちゃんが言っていただろ。彩ちゃんが頑なになって一人で居続けているって。あれ、本当なの?」
わたしはワインの入ったコップに口を付けながら少し考えた。「そうね、どうだろう...。あんまり自分ではそうとは思っていないんだけど、知らず知らず頑なになっているのかもしれない。...高校の時、一応付き合っている人がいたんだけど、ちょっと辛い最後だったのよ。そのことにまだケリがついていないっていうのかな」
「じゃあそのケリがつくまでは、もし男の人に告白されて、彩ちゃんもその人のことが気にかかっていたとしても、付き合うつもりはないの?」
「...そんなことはないと思う。ケリっていってもそれは時間が解決してくれるものだと思うし、わたしにはどうすることもできない...。それよりも自分の心に正直になって、今好きな人と一緒にいることの方が大切だと思う」
「そうか。じゃあ『昨日』とはこの歌を聴いてさよならだ」
アキラ君はまたギターを弾きはじめた。「yesterday」だった。
イエスタデイ...。わたしの心は鳥となって東京へ飛んでいった。そこではわたしはあの人と一緒にいた。とても楽しい日々だった。歌の通りだった。でも、別れは突然訪れた。正確には別れと言うよりは破綻と言うべきだろう。あの人は、結局わたしのことを知ろうとさえしなかったのだ。そう思うと、わたしの瞳から涙が一粒こぼれ落ちた。後は涙が雨のように止めどなく頬を濡らした。雨の中で鳥は何処にも飛び立つことができなかった。
「いつまでも『今日』という日に立ち止まっていては駄目だ。俺達は明日に向かって進まなければならない、たとえ今日という日がどんなに辛くても」
「...うん」わたしは溢れる涙を拭いながら肯いた。
「アキラ君」
「うん?」
「わたし、たぶんアキラ君のことが...好きなんだと思う」
「俺も彩ちゃんが大好きだ。俺は春からずっと山野彩子が好きだった」
「...本当にこんなわたしでもいいの?」
「何言ってるんだよ」
「アキラ君。今だけでいいから...わたしを抱いて。お願い」
彼はギターをベットの上に置き、わたしの傍に来て、そしてわたしを優しく抱き締めた。
「彩ちゃんに辛いことがあったら、俺がいつでも彩ちゃんを抱き締めるよ」
真夜中の静寂の中で私達はいつまでも抱きあっていた。
不思議な夢を見た。
仕事帰りや飲み会を控えた人で賑わう街を、わたしはアキラ君と二人で手を繋いで歩いていた。わたしは穏やかな嬉しさとでも言うべき感情で満たされていた。ふと目線を彼から前方へと向けると、わたしの少し手前に若い男の後ろ姿があった。とても見覚えのあるシルエット、あの人に違いない。わたしは思わずアキラ君の手を振り払って、前を歩いている男を目指して駆け出す。後ろで「彩ちゃん!」と呼ぶ声がする。わたしは走り続ける。でもどれだけ必死に走っても眼前を歩く男に追いつくことはなく、むしろどんどん遠ざかっていくように見える。最後には男は夜の闇の中へ消えた。わたしは走るのを止め、息を切らしながらその場にうずくまった。やや呼吸が整い、ゆっくりと立ち上がったところで何かがおかしいことに気付いた。そして次の瞬間、わたしは戦慄した。果てしない夜の草原の中、わたしはたった一人でたたずんでいたのだ。
天空には無数の星が瞬き、地表の草は夜風に吹かれて優しく靡く。何処で服を脱いだのか、わたしは全くの裸で、わたしの肌は月光に照らされて青白く輝く。怖ず怖ずと辺りを見渡してみたが何もない。ただ月の位置から判断して遥か西の方向に森らしき暗黒が存在し、その中から一点の小さな光が放たれていた。家の灯りだろうか、とわたしは考えた。行ってみようと思い、歩き出そうとしたが、わたしは何故か今立っているところから一歩も動くことが出来ない。ただ、わたしの僅かな体の動きに合わせて、月光がわたしの肌に描く陰影が揺らめくだけだ。だんだん恐怖に飲み込まれるような気がしてきて、どうしようもなくなったわたしは叫んだ。でも如何なる音もわたしの口から発せられることはない。やがて、雲がゆっくりと次第に天空を覆い始める。そしてわたしの体もゆっくりと影に飲み込まれてゆく...。
暑苦しくて目が覚めた。昼前だった。わたしは一人で、下着しか身に着けておらず、肌にはうっすらと汗を浮かべていた。昨日着ていたわたしの服が床に無造作に脱ぎ捨ててあった。あまり記憶は確かなものではないが、おそらくあれからわたしは服を着たまま眠ってしまい、あまりの暑さに寝苦しくて無意識のうちに脱いでしまったのだろう。もちろん彼との間には何もなかったのは疑う余地がなかった。彼は酔いに任せて女と寝るような人ではないはずだし、そもそも何もなかったという事実はわたしの体が誰よりも知っていることだからだ。
机の上に、なにやら書き置きのような物が置いてあった。
彩ちゃんへ
おはよう
俺は自分の部屋に戻りました
不用心だから、彩ちゃんの部屋の鍵をかけておくね
鍵は俺が預かっているから、目が覚めたら取りに来て
アキラより
読み終えてアキラ君らしいなと思わずにはいられなかった。わざわざ鍵をかけてくれてありがとう。でも別にわたしの部屋に泊まっていっても良かったのに。
パジャマを着て、カーテンを開けて、狭いベランダに出て外の空気を吸った。眼下では管理人のおばさんが相変わらず丁寧に掃除をしていた。
「おはようございます」
「あら、山野さんおはよう。今起きたの」
「ええ、ちょっと昨日遅くまで起きてて」
「なーに、また勉強してたのかい?頑張ってるねぇ」
わたしは思わず苦笑した。まさか、夜分遅くに若い男と二人でずっと抱き合っていましたなんてとても言えない。はい、わたしの部屋でです。いえ、それ以上は何もありません。心配要りませんよ。心の中でそんな台詞を管理人さんに向かって言ってみたが、吹き出しそうになった。わたしは「ええ、まあそうです」と適当に答えておいた。
わたしはそのまま数分ほど風に当たり、外の景色を眺めた。いつもと変わらない田舎の風景だ。そして部屋に戻った。
小さなテーブルの上には飲みかけのコーヒーとワインの入ったグラスが2つずつ並んでいた。わたしはそれらをキッチンに下げ、コーヒーを飲むためのお湯を沸かしている間に洗い終えた。
コーヒーを啜り、トーストを囓りながらわたしはふと疑問に思った。何故、あの時「たぶん」などと言ってしまったのだろう?...言葉に出すまでは、わたしは自分の彼を想う気持ちに気付かなかった。いや、正確には気付くことを回避していたと言うべきだろう。昨日彼の隣で過ごしながら何度も感じた、じんとする熱い疼きのようなものは、彼への想いに他ならなかったのだ。アキラ君の音が、歌が、わたしの心に触れるまでは、わたしは自分の気持ちにさえ対峙することができなかったのだ...。まあいい。考え続けていても仕方がない。そう思い、わたしはシャワーを浴びることにした。
シャワーを浴び終えて身支度を整えていると呼鈴が鳴ったので出てみると、そこにアキラ君が立っていた。
「ごめん、今行こうと思っていたの」とわたしは少しばつの悪い表情を浮かべて言った。「中に入る?」
昨日のこともあってお互いに少しだけ緊張していたが、わたしはやはり彼の傍にいることでとても嬉しい気持ちになることができた。
「暑くて寝苦しかったと思うけど、よく眠れた?」とアキラ君がわたしに鍵を渡しながら訊いた。
「うん、ちょっと寝過ぎたけど。いつの間にか下着一枚になってたし」
「ええっ?」とアキラ君はかなり驚き、顔を真っ赤にしていた。
「ふふ、ホントにウブだよね、アキラ君って」と言い、それから訊こうかどうか少しだけ迷ったが、思い切って訊いてみた。「アキラ君って...付き合ってた人とかいるの」
少し間をおいてから「うん、いたよ。高校の時」とだけ彼は答えた。わたしはその続きを待ったが、彼は特に話す様子もなかったので、わたしはそれきりにして詮索するのをやめた。でも、気になるのも正直なところだった。彼のような人と一体どんな人が付き合っていたのだろう?どれくらいの期間?どんな付き合い方をしていたのだろう?知りたいことが泉のようにこんこんとわたしの中から湧き出てきた。
「さ、俺、そろそろ学校に行くよ」と彼はおもむろに言って立ち上がった。
「うん、行ってらっしゃい」
それからの日々は疾風の如く過ぎ去った。アキラ君は勉強や音楽に励む日々を過ごしていた。彼は割と家を空けることが多かった。彼とよく話すようになって知ったことなのだが、彼は音楽仲間達と週に何度か京都市内で集まって練習をしているらしい。それだけ音楽に打ち込んでいる一方で、学業も決して怠ってはいなかった。「俺、それなりに勉強したくて大学に入ったんだから」と彼は笑顔で答えた。そんな風に多忙な一日の活動を終えたあと、彼は必ずわたしに会いに来てくれた。疲れは僅かにその顔に浮かんでいたが、それでも彼はとても楽しそうにわたしと会話した。もっとも友達だった頃と何らかわりのない会話で、それがすこしだけ歯がゆいと言えなくもなかった。あの夜のことは夢だったのだろうか...?舞子も隆一君もそれぞれに日々を忙しく過ごしているようだった。わたしはといえば相変わらず一心不乱に『それから』を読み耽っていた。
例の英語のクラスで、7月の中旬に英文のレポートを提出することになった。
「一緒に勉強しようか?」とアキラ君が提案し、私達は毎夜どちらかの部屋で文献やら英和辞典やら飴玉やらを机の上に散りばめながら勉強するようになった。
「まったくとんでもないレポートよねぇ」
「うん、まったくだ。英文でレポート用紙5枚なんて、他のテスト科目の勉強もしなきゃならないのに辛すぎる」
などと言いながらやはり心の中ではお互いに夜を待ち望んでいたのだろう。毎日会話ばかりが弾み、肝心のレポートの方はさっぱり完成しそうになかったからだ。おかげで、三日前からは、殆ど徹夜で作業をする羽目になった。
「やれやれ、やっと終わった」とアキラ君が深い安堵の息をついたのはレポート提出日の午前三時のことだった。その時は、私達はわたしの部屋で執筆作業を行っていた。蒸し暑い夏の夜のことだった。
「お疲れさまでした」とわたしは言って彼と握手をした。
「彩ちゃんこそお疲れさま」
「うん」
「よし、祝杯を挙げよう!彩ちゃん、冷蔵庫に何かお酒入ってる?」
「ちゃんと入ってるよ、アキラ君用にビールがいっぱい」と笑いながら言って、わたしは冷蔵庫から缶ビールを二本取りだし、一本を彼に差し出した。
「乾杯」とアキラ君が言った。
「何に向かって乾杯?」
「そりゃ勿論けなげに頑張った二人に、だよ」
「他には?」
少しの間彼は黙った。黙っている間に彼の耳が見る見る赤くなっていくのがよく分かった。
「...一ヶ月。二人が付き合い始めてから一ヶ月を記念して...乾杯!」
「乾杯!」
「もう、彩ちゃんは意地悪なヤツだなぁ」と言って、アキラ君は照れを隠すかのようにビールを半分くらいまで一気に飲んだ。
「ふふふ、意地悪はわたしの専売特許よ」
そう、あの夜からちょうど一ヶ月が過ぎたのだ。
午前3時の静寂の元では全ての生き物が息絶えたように感じる。
黙っていると何も聞こえない。窓の外には闇しか見えない。勿論此処の建物の中でもまだ多くの住民が起きているのだろうし、世間に目をやれば、働いている人だって沢山いるだろう。それでも、時すら虚ろに流れるこの闇の中では、わたしは生の存在を想像できなかった。全ては死に、わたしは何処でもない空間の中にいる。
「何を考えているの?」
「ん?」とわたしは驚いて言った。いつの間にかわたしは自分の世界へ引き籠もっていたのだ。
「いや、なんかぼーっとしていたもんだから」
「ごめん、ちょっと考え事をしていたもんで」とわたしは謝った。そして、考えていた「夜の闇」のことについて舌足らずではあるが説明した。
「ふうん、夜の闇か。たしかに午前3時の静寂はちょっと特別かもしれない。まあ、此処があまりに田舎すぎるせいもあるだろうけど」
「時々、怖くなることがあるの。みんな死んでしまって、わたしだけがこの世界に取り残されてしまったんじゃないかって...」
「おいおい、勝手に皆殺しにするなよ」と彼は笑っていった。「そんなことはこれからは考える必要はないよ。大丈夫。少なくとも俺はこうして生きているじゃないか」
結局そのまま私達はわたしの部屋で飲んだくれ、二人して雑魚寝してしまい、起きたのはゆうに正午を回っていた。レポートの方はどうにか提出まで漕ぎ着け、2週間程の前期試験日程も、幾ばくかの不安要素を残しながらも無事終了した。
私達はと言えば、お互いに相変わらず妙な初々しさを醸し出してはいたが、この一ヶ月の間、殆ど毎日一緒にいたわけで、しかも生活の場である「部屋」という空間の中で時を過ごしたせいか、とても密度の濃い日々を過ごし、急速に親密さは増したようにわたしは感じていた。おそらく彼にしても同じだろう。
大学は夏休みに入り、マンションに住む学生達も徐々に帰省の途についたようだった。窓からほの見える部屋の明かりが一つまた一つと減り、おかげであたりはますます暗い場所になった。
「じゃあ、私達二人で旅行に行ってくるから」と舞子は言い残し、隆一君の運転する車に乗って早々と京都を離れた。「彩子。あんた達も二人で何処かに行ったらいいよ。後日談期待してるからね!」
その夏、わたしはあてもなく彷徨っていた。特に行き先も決めず、予定も立てず、その時々の思いに身を任せて何処か遠い場所へと旅したのだ。
一人旅に出たいというわたしの意志を打ち明けたとき、彼は少なからず驚き、また落胆したようだった。7月も終わろうとしているある夜のことだ。日が墜ちても熱気が退くことはなく、部屋の中でじっとしていても肌には玉のような汗が滲んだ。
「俺も一緒に行っちゃ駄目かな?」
「ごめんなさい。わたし、大学に入ってから一人旅をするのが夢だったの...」
アキラ君は何も言わずにビールを一気に飲み干した。さすがのアキラ君といえどもわたしの不可解な決意に困惑しているようだった。
「ふらふらとしながら、一人でいろんな事を考えたいの」
話しながら、わたしは一体何を言ってるんだろうと思った。わたしは何でこんな馬鹿なことを言っているのだ?
結局彼はわたしのわがままを承諾してくれた。
「9月にまた会おう。そして後期が始まるまでに俺と一緒に何処かへ行こう」
アキラ君は棚からCDを取り出し、プレーヤーにセットした。エンヤの「Evening Falls...」だった。なんだかあまりに時季外れな音楽だったけど、その幻想的な音はうだるような暑さを幾らか忘れさせてくれた。
「この曲を聴くと、なんだか鍾乳洞の中にいるような感じがしてくるの」
「暑くて耐えられないときはこの曲をリピート再生すると良いんだ」と彼は笑って言った。
いい人だ、と思わずにはいられなかった。あの日以来言葉に出すことはないけれど、彼の想いは湖面を伝う波紋のようにわたしの心に絶え間なく届いた。それでいて束縛することなく、まるで絹のローブのように優しくわたしを包んでくれる。それなのに、わたしは一体何をやっているのだろう...。
