第一章
風が大地を吹き抜ける。
雲は地平線の少し上方に薄く広がり、そこから天頂に向かって青が深みを増しながら広がっている。背丈の短い草は見える限りの地平を覆い、微風にその身を任せている。太陽は天頂の座を降り、南西の方角から地表の全てを照らす。
そんな光景がわたしがここから見ることのできるものの全てで、風と風に靡く草の音がわたしがここから聴くことのできる音の全てだ。
はるか彼方に山脈が低く連なり、空と大地を切り裂く。山の向こうに何があるのかはわからない。でも、山を越えることができたなら、此処とは違う何処かに辿り着ける。
彼もそんなことを考えていたのだろうか。この場所で、彼も山を越え、其処にあるはずの何かをその目で見たいと願っていたのだろうか。少しの間、彼のことを考える。穏やかで優しく、だけど強い光を湛える目を、いつも押し隠していた悲しみを、そして彼自身を。想うと、胸が苦しくなり始める。どうしてだろう?わからない。
思わずその場にしゃがみ込む。彼は山を越えた。彼は新しい世界を知り、新しい生活を始め、そしてわたしと出会った。草が風に揺れてそよそよと小さく音を立てる。
「考えすぎるのは彩ちゃんの悪い癖だよ」と彼は笑いながら言った。「そんなに一人で思い詰めないで、時には誰かの想いに身を委ねるのもいい」
「でも」とわたしは言う。でも、わたしの気持ちはどうするの?
そういえば、草は大地に根を下ろしているのに風に揺られると心地良さそうに戦いでいるな、と思う。瞳から涙が一粒こぼれ落ちる。だけど悲しいわけではない。
あるいは彼は自分自身に向かって言っていたのかもしれないな、と思う。
わたしは立ち上がり、深く息を吸い込む。
第一章
桜がはらはらと散っていく様子を窓越しに眺めながら、わたしは大学の食堂で少し遅めの昼食を取っていた。窓の外には、満面の笑みをその顔に湛えた数人の学生達が何か雑談をしていた。おそらくはこの春入学した新入生だろう。春の柔らかな日差しと桜吹雪の中で楽しそうに会話をする学生達の姿はどうしてこんなに幸せそうに見えるのだろう、と意味もなく思ってしまった。考えてみれば、わたしだって新入生なのだ。変に考えすぎないで楽しくやればいい。色々なことを考えすぎるのはわたしの悪い癖だ。少しだけ自分に嫌悪感を抱きつつ、すっかり冷めてしまって溶解した鉛のような表面を呈しているカレーライスの残りに再び手を着けた。
「彩子ー!」と後ろからわたしの名前を呼ぶ声がした。振り返ると、こちらへ足早に歩いてくる舞子を見つけた。相変わらず派手な服を身にまとっている。
「ここ空いてる?」と彼女はわたしの向かいの席を指さして訊いた。
「ええ、御予約は一切ございません」とわたしは言って、彼女をそこへ座らせた。
「この時間だったら、生協食堂に行けば彩子に会えると思ったんだ」
「ふふ、さすがにわたしの行動パターンをよくわかってるわね」
「てゆうか、あんたがわかりやすいだけやんか」と彼女は関西弁で言った。
舞子とは中学からの付き合いだ。わたしと彼女とは服の趣味からして全く異なり、まして日々の生活パターンは北極熊とカンガルーくらいの差があった。彼女は目立つ服を着ていつも誰かと一緒にいて、いつもどこかに出かけていた。一方、わたしは日々を自分のやりたいように自分のペースで過ごし、服は殆どジーンズとボタンダウンのシャツで通していた。それでも、不思議と私達は離れることもなく、今まで仲良く友達どうしであり続けている。
「今日はこれからサークルの人達と新歓コンパなんだ」と舞子は言った。「それで、彩子も一緒に来ないかな、と思って聞きに来たんだ」
「えー、だってわたしサークルのメンバーじゃないよ」
「いいの。どうせ潜りこんじゃえば誰もわかんないし。男と知り合ういい機会かもよ」
「うーん、でもやっぱやめとくわ。わたしそういうの苦手だし。ごめん」
「そっか。いや、いいよ。苦手なのはよーくわかってるって。ちょっと聞いてみただけ」
「ごめんね」とわたしは謝った。彼女は決してわたしをからかっているのではなく、彼女なりの好意でわたしを誘ってくれているのはよくわかっていた。
「彩子」
「なに?」
「あんた、ひょっとしてまだあの事引きずってるの?」
「...そんなことないよ」
窓の外には、さっき見た学生達がまだ笑いながら話をしていた。彼らの他にもキャンパスには初々しい学生達で溢れ、誰一人として苦渋に満ちた表情をしているものはなかった。人々の顔は「これからの人生において全ては順風満帆に進む」と語っていた。桜は相変わらず宙を舞い、螺旋を描いてゆっくりと地に落ちていった。
わたしはカレーライスを食べ終え、私達は近くの自動販売機へ行き、二人ともコーヒーを買い、食堂に戻ってきた。
「カレーライスにコーヒー、あんたも好きねぇ」と舞子は呆れたように言った。
わたしは笑って誤魔化した。「わたし、たしかにカレーは昔から好きだったんだけど、コーヒーは元々はそんなに好きじゃなかったんだ。特にコーヒーなんか『こんな苦いもの飲めるか』って感じだった。だけど、これだけたくさんの人が毎日飲んでいるということは、やっぱり人をほっとさせる何かがあるからなんだろうし、駄目だって思い込まずに『もし好きになれたなら、いいところに気づくことができたなら』と思ってちょっとずつ飲むようにしたの。そうしたら、ほら、今ではもうわたしのダーリンよ、ふふ」
「ふうん、相変わらず訳わからん事言うわねぇ。そんなこと言ってる暇あるんだったら、早く本当のダーリンでも作りなさいよ」と舞子は呆れていった。どうやらわたしは舞子を呆れさせるのが得意らしい。
食堂は、食事をとるような時間帯でなかったこともあって、がらがらに空いていて、程良く距離を置いてぽつんぽつんと人が点在しているだけだった。あるものは文庫本を読み、またあるものはレポートか何かを書いているようだった。地味とも言える静かな空間は、だけど、わたしのお気に入りでもある。
向こうから男の人が一人歩いてくる。たしか英語のクラスで一緒のアキラ君だった。こちらに近づいてくるが、わたしには気づいていない様子だ。
「アキラ君」と思い切って声をかけてみた。
「あ、ああ、山野さん...だよね。こんちは」と彼は戸惑いながらも、挨拶だけは元気よく返してくれた。
「こんちは」とわたしも返す。「御飯食べに来たの?」
「うん、これから授業があるんだけど、その前に腹ごしらえでもしようかな、と思って。じゃあ、注文しに行くよ」と彼は配膳コーナーに向かった。
舞子がニコニコしながらずっとアキラ君を見ていて、「さ、邪魔者はそろそろ退散のお時間ですね」と嬉しそうに言って、席を立とうとした。
「ちょ、ちょっと待ってよ。全然そういうのじゃないって。大体、アキラ君とは知り合ったばかりなんだから」と慌てていった。本当にそういうのじゃない。
「ま、いいんじゃない。よく知らないんだったらこれからたくさんお話でもしなさい。じゃあ、またね!」と舞子はわたしの言うことなんかろくに聞かずに食堂を後にした。やがて、アキラ君が食事を盆の上に載せてこちらに戻ってきたが、わたしから少し離れたところにあるテーブルに座ろうとしていたので、「アキラくーん」と渋々声をかけた。
彼がこっちにやってきて、「あれ、友達はどうしたの」と聞いてきたので、「用事があるって先に帰っちゃった」と適当に答えた。「そこに座っていいよ」
*
アキラ君は美味しそうに白身魚のフライを食べていた。もともとおとなしい性格なのか、それとも照れているだけなのかはわからないけど、ひたすら黙々と食べ続けていた。彼があまりに美味しそうに食べているので見ているだけでもなかなか楽しかったのだが、まったく会話をしないというのもなんなので、とりあえずこう切り出してみた。
「ねえ、アキラ君って出身、何処なの?」
「え、出身かい?」と食べ物を頬張らせたまま言い、一呼吸おいて咀嚼し終えてから「出身は北海道だよ。北海道の旭川ってところ」と言った。
「北海道?へぇー、またずいぶんと遠いところからやって来たのねぇ」とわたしは驚きを隠さなかった。「それで、なんで京都に来ようと思ったわけ?」
「わけ。訳っていうほどの深い理由はないんだけど...一度、北海道を出て全く違う環境のもとで、ゼロから自分の力で暮らしてみたかったって事かな。いや、なんか格好良く聞こえちやうかもしれないけど、本当にそう思ったんだ」と彼は顔を赤らめながら言った。「山野さんはどこから来たの?」
「私は東京から来たの」
「東京?東京からわざわざ京都に来る人もけっこう珍しいと思うけど。ほら、東京って腐るほど大学あるんだし」
「わたしもアキラ君とけっこう似たような理由よ。誰も知り合いのいないところに行って暮らしたいと思っていたの。まあ、舞子...さっき一緒にいた子とは中学からの友達なんだけど」と私は苦笑を交えていった。
「ふーん、そっかぁ。山野さんもそう思って京都に来たんだ。俺らくらいの年齢って、旅をしたくなる年頃なのかなぁ」と彼は茶化して言った。
偶然とはいえ、お互いに似たような思いを抱えて京都にやって来たという事実を知ったことで、彼に対して少しだけ親近感を抱いた。それに彼が大学生活を旅と捉えていることはわたしを良い意味で驚かせた。旅という言葉が彼の口から出るまでちっとも気づかなかったのだが、おそらくわたしも「旅」をしたかったのだろう。
「山野さん。俺、これから授業があるからそろそろ行かなくちゃいけないんだ」といつの間にかきれいに食事を平らげていたアキラ君が言った。
「そっか。頑張ってね」とわたしは言った。
「ねえ、アキラ君」
「うん?」
「御飯、美味しかったでしょ?」
「え、あ、うん。うまかったよ。でも何で?」
「あんまり美味しそうに食べていたからよ」
「え、そっか。ハハハッ」と彼は苦笑いしながら「じゃあね」と言って足早に去っていった。
「じゃあね」
わたしは今まで舞子との付き合いを除けば孤独といえなくもない静かな生活をこの地で送ってきて、それはそれで別に寂しくはなかったのだが、アキラ君という「旅人」と知り合ったことで何だか妙にほっとした気分になった。
そんなことを考えながらコーヒーの残りをゆっくりと飲み干した。ふと窓の方を見てみると、まださっきの学生達がそこにいて談笑していた。彼らはまるで彼らのまわりだけ時間が止まっているかのようにその風景に留まっていた。
(12月26日アップ)
行きたい大学の一つではあったのだが、わたしの通う大学は第一志望というわけではなかった。もっと正確に言うなら、第一志望という概念はある日を境にわたしの中から消え去った。その日以来、東京で暮らすことは耐え難い苦痛を味わうことと同義となった。それで、わたしが東京の大学に進学することを希望していた親には大変申し訳ないが、それらの入学試験はわざと落ち、悲しみに暮れる親を後に鞄一つで京都に向かう新幹線に飛び乗った。
わたしの住む町の駅に降り立った時、わたしは文字通り言葉を無くした。一言で言えば、そこは「塀のない収容所」だった。本当に、何もないのだ。噂には聞いていたが聞きしに勝るとはこのことで、眼前に広がる風景は完全にわたしの想像を凌駕していた。「こりゃ、思った以上に静かな生活になりそうだな」とわたしは心の中で呟いた。
わたしが暮らすことになるワンルームマンションにはまだ多くの救いが残されているかにみえた。大学から歩いて5分程で、設備はしっかりしていて、有線放送は標準設置されていて、愛想の良い管理人さんは本当によく働き、おまけに家賃は条件と比して異常に安かった。壁は薄かったし、おまけにかなりの数の男子学生がそこに住んでいたのだが、まあ良い社会勉強になるだろうと楽観的に考えていた。それに、破格の家賃の魅力はそれを補って余りあると思ったのだ。
その年の4月はわたしにとって文字通り地獄の季節だった。入学式当日の夜からマンションでは酒盛りが毎夜繰り返された。それらの大半は男子学生同士で集まって行われるものであり、数人の男が女の子の部屋に押し掛けて無理矢理上がらせてもらうという犯罪行為の二、三歩手前のような例も僅かながらあった。それらの会話のやりとりは玄関口やベランダから全て聞こえてきた。マンションは共同廊下と部屋との間には玄関のドア一つしか隔てるものが無く、彼らの無遠慮な大声や奇声は聞きたくなくても聞こえてくるのだ。
大学に入るという事は人をここまで浮かれさせるのか、とわたしはまるで他人事のように思った。今まで押さえつけていた欲望の解放、難関大学の入試をパスしたという驕り、それとも純粋な若さ...一体何が彼らを突き動かしているのか。何に彼らは操られているのか。
わたしの部屋にも知り合いの男の人が押し寄せてきたことがある。
「いやあ、学校近くの居酒屋で飲んでたんだけどさぁ、つい終電逃しちゃって帰れなくなったんだ。ほら、俺ん家って大阪だろ?で、もし良かったら彩子ちゃんの部屋で時間潰させてもらえないかな?」
「え...?う、うん...いいよ。なんにもない部屋だけど」
わたしは別に人付き合いを避けているわけではなかったし、まあ、大学生活にはこういうこともあるだろうと思っていたから、ちょっと怖くもあったけど彼を部屋に上げた。でも、彼の優しい口調の向こうに欲望が見え隠れしていることにすぐに気付いた。視線、手の動き、不自然な会話、それらは彼以上に彼を語っていたのだ。耐えようとも思ったが、次第に気分が悪くなってきて、終いには怒りすら込み上げてきたので、「ねえ、本当に悪いんだけど、やっぱりどこか他の友達のところ、当たってくれないかな」と切り出した。
「え?...そうか...。...いや、俺の方こそいきなり押し掛けてきてごめんな」と彼は最後まで優しい口調を保ちながらわたしの部屋を後にした。しかし彼は二度とわたしと会話を交わすことはなく、二週間後にはもう恋人を作っていた。
男の人の欲というものはわたしなりに理解しているつもりだ。それは生物学的に言えば至極当然のものだとすら思っている。わたしが嫌なのは、彼らがその本能を優しさという偽善の鎧で武装することと、わたしのことを山野彩子としてではなく女としてしか見ていないことだ。誰もわたしを知ろうとはしない。誰も。
5月の初めにはマンションに空室が幾つか出来た。それらは女の子が住んでいた部屋で、わたしがマンションで知り合った女友達の中の数人もここでの生活に音を上げて退散していった。
それでもわたしはそのマンションに留まった。エアコンの利き具合は破滅的に悪く、温水器はよくストライキを起こしたが、それにも慣れた。薄い壁の向こうからいつも隣室の男子学生が弾き語りをする様子が聞こえてきたが、それを楽しめるようにすらなった。彼は本当にいろんな歌を熱心にうたっていたのだ。
「そんな部屋とっとと出て、わたしのマンションにでも引っ越しなさいよ」と舞子はよく言った。彼女は女子学生専用マンションに住み、安全で快適な生活を送っていた。住人同士での交流も盛んなようだった。
「まったくもう、よくそんな獣の巣窟みたいなところに住んでいられるわね」
たしかにここは風景といい男の人といい、人外魔境なのかと思わずにはいられなかった。でも、程度の差こそあれ結局のところ、どこだって似たようなものだ。良い事もあれば悪い事もある。良い人もいればあまり良くない人もいる。
結局、わたしは三年次進級に伴って通うキャンパスが京都市内に移るまでの2年間をそこで過ごした。
(1月5日アップ)
日々は淡々と過ぎ去った。そこでのわたしの生活模様は傍目に見るとひどくつまらないものと映るだろう。でもわたしにとっては、その日々は夕暮れの砂浜に煌めく貝殻のように本当にかけがえのないものだ。アキラ君が自らの大学生活を旅と捉えていたように、わたしも何処かを目指して流れる日常を流離っていた。のっぺりとした単調な生活という服をその時のわたしから剥ぎ取れば、様々な物事に対する想いの錯綜という裸をわたしはいとも簡単にさらす。たぶん、わたしはわたし自身を探し求める旅をしていた。だから、わたしはいろいろな事に対して敏感でいたいと願い、より遠くを見渡すことの出来る眼を欲した。わたしの力ではどうしようもないことの幾つかは友によって助けられた。わたしの大切な友人はわたしの心を陽光から閉ざしていた重い扉をこじ開けてくれた。それは本当に岩のように重い扉だった。めまぐるしく変動する世界の歴史と比せば、わたしのその2年間はギリシアの暗黒時代のように何一つ記述されることなく闇へと葬り去られるだけの歴史なのだろう。それでもいい。だけど、二つだけ、言えることがある。わたしはその暗黒の中で少しだけ成長したということと、その記憶は誰の手によってしても決して葬り去ることなど出来ないということだ。
でも当然のことだけど、その時の流れに再びわたしの身を委ねることは出来ない。伝えられなかった感謝の気持ちを伝えようと思っても、傷つけた人にせめて詫びようと思っても、わたしはそこに帰ることが出来ない。今、わたしに出来る全てのことは、その時の想いを少しでもこぼれ落ちないように胸に抱いて、遙か遠い地平を見渡しながら果てることのない大地をゆっくりと歩き続けることだ。

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on MacBook Proと、再びクリエイティブに。
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on 愛機、Ricoh GR DIGITAL II。
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