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1999年1月 5日

第一章

 風が大地を吹き抜ける。

 雲は地平線の少し上方に薄く広がり、そこから天頂に向かって青が深みを増しながら広がっている。背丈の短い草は見える限りの地平を覆い、微風にその身を任せている。太陽は天頂の座を降り、南西の方角から地表の全てを照らす。
 そんな光景がわたしがここから見ることのできるものの全てで、風と風に靡く草の音がわたしがここから聴くことのできる音の全てだ。

 はるか彼方に山脈が低く連なり、空と大地を切り裂く。山の向こうに何があるのかはわからない。でも、山を越えることができたなら、此処とは違う何処かに辿り着ける。

 彼もそんなことを考えていたのだろうか。この場所で、彼も山を越え、其処にあるはずの何かをその目で見たいと願っていたのだろうか。少しの間、彼のことを考える。穏やかで優しく、だけど強い光を湛える目を、いつも押し隠していた悲しみを、そして彼自身を。想うと、胸が苦しくなり始める。どうしてだろう?わからない。
 思わずその場にしゃがみ込む。彼は山を越えた。彼は新しい世界を知り、新しい生活を始め、そしてわたしと出会った。草が風に揺れてそよそよと小さく音を立てる。
「考えすぎるのは彩ちゃんの悪い癖だよ」と彼は笑いながら言った。「そんなに一人で思い詰めないで、時には誰かの想いに身を委ねるのもいい」
「でも」とわたしは言う。でも、わたしの気持ちはどうするの?

 そういえば、草は大地に根を下ろしているのに風に揺られると心地良さそうに戦いでいるな、と思う。瞳から涙が一粒こぼれ落ちる。だけど悲しいわけではない。

 あるいは彼は自分自身に向かって言っていたのかもしれないな、と思う。
 わたしは立ち上がり、深く息を吸い込む。

 

第一章

 桜がはらはらと散っていく様子を窓越しに眺めながら、わたしは大学の食堂で少し遅めの昼食を取っていた。窓の外には、満面の笑みをその顔に湛えた数人の学生達が何か雑談をしていた。おそらくはこの春入学した新入生だろう。春の柔らかな日差しと桜吹雪の中で楽しそうに会話をする学生達の姿はどうしてこんなに幸せそうに見えるのだろう、と意味もなく思ってしまった。考えてみれば、わたしだって新入生なのだ。変に考えすぎないで楽しくやればいい。色々なことを考えすぎるのはわたしの悪い癖だ。少しだけ自分に嫌悪感を抱きつつ、すっかり冷めてしまって溶解した鉛のような表面を呈しているカレーライスの残りに再び手を着けた。
 「彩子ー!」と後ろからわたしの名前を呼ぶ声がした。振り返ると、こちらへ足早に歩いてくる舞子を見つけた。相変わらず派手な服を身にまとっている。
「ここ空いてる?」と彼女はわたしの向かいの席を指さして訊いた。
「ええ、御予約は一切ございません」とわたしは言って、彼女をそこへ座らせた。
「この時間だったら、生協食堂に行けば彩子に会えると思ったんだ」
「ふふ、さすがにわたしの行動パターンをよくわかってるわね」
「てゆうか、あんたがわかりやすいだけやんか」と彼女は関西弁で言った。
 舞子とは中学からの付き合いだ。わたしと彼女とは服の趣味からして全く異なり、まして日々の生活パターンは北極熊とカンガルーくらいの差があった。彼女は目立つ服を着ていつも誰かと一緒にいて、いつもどこかに出かけていた。一方、わたしは日々を自分のやりたいように自分のペースで過ごし、服は殆どジーンズとボタンダウンのシャツで通していた。それでも、不思議と私達は離れることもなく、今まで仲良く友達どうしであり続けている。
「今日はこれからサークルの人達と新歓コンパなんだ」と舞子は言った。「それで、彩子も一緒に来ないかな、と思って聞きに来たんだ」
「えー、だってわたしサークルのメンバーじゃないよ」
「いいの。どうせ潜りこんじゃえば誰もわかんないし。男と知り合ういい機会かもよ」
「うーん、でもやっぱやめとくわ。わたしそういうの苦手だし。ごめん」
「そっか。いや、いいよ。苦手なのはよーくわかってるって。ちょっと聞いてみただけ」
「ごめんね」とわたしは謝った。彼女は決してわたしをからかっているのではなく、彼女なりの好意でわたしを誘ってくれているのはよくわかっていた。
「彩子」
「なに?」
「あんた、ひょっとしてまだあの事引きずってるの?」
「...そんなことないよ」

 窓の外には、さっき見た学生達がまだ笑いながら話をしていた。彼らの他にもキャンパスには初々しい学生達で溢れ、誰一人として苦渋に満ちた表情をしているものはなかった。人々の顔は「これからの人生において全ては順風満帆に進む」と語っていた。桜は相変わらず宙を舞い、螺旋を描いてゆっくりと地に落ちていった。
 わたしはカレーライスを食べ終え、私達は近くの自動販売機へ行き、二人ともコーヒーを買い、食堂に戻ってきた。
「カレーライスにコーヒー、あんたも好きねぇ」と舞子は呆れたように言った。
わたしは笑って誤魔化した。「わたし、たしかにカレーは昔から好きだったんだけど、コーヒーは元々はそんなに好きじゃなかったんだ。特にコーヒーなんか『こんな苦いもの飲めるか』って感じだった。だけど、これだけたくさんの人が毎日飲んでいるということは、やっぱり人をほっとさせる何かがあるからなんだろうし、駄目だって思い込まずに『もし好きになれたなら、いいところに気づくことができたなら』と思ってちょっとずつ飲むようにしたの。そうしたら、ほら、今ではもうわたしのダーリンよ、ふふ」
「ふうん、相変わらず訳わからん事言うわねぇ。そんなこと言ってる暇あるんだったら、早く本当のダーリンでも作りなさいよ」と舞子は呆れていった。どうやらわたしは舞子を呆れさせるのが得意らしい。
 食堂は、食事をとるような時間帯でなかったこともあって、がらがらに空いていて、程良く距離を置いてぽつんぽつんと人が点在しているだけだった。あるものは文庫本を読み、またあるものはレポートか何かを書いているようだった。地味とも言える静かな空間は、だけど、わたしのお気に入りでもある。
 向こうから男の人が一人歩いてくる。たしか英語のクラスで一緒のアキラ君だった。こちらに近づいてくるが、わたしには気づいていない様子だ。
「アキラ君」と思い切って声をかけてみた。
「あ、ああ、山野さん...だよね。こんちは」と彼は戸惑いながらも、挨拶だけは元気よく返してくれた。
「こんちは」とわたしも返す。「御飯食べに来たの?」
「うん、これから授業があるんだけど、その前に腹ごしらえでもしようかな、と思って。じゃあ、注文しに行くよ」と彼は配膳コーナーに向かった。
舞子がニコニコしながらずっとアキラ君を見ていて、「さ、邪魔者はそろそろ退散のお時間ですね」と嬉しそうに言って、席を立とうとした。
「ちょ、ちょっと待ってよ。全然そういうのじゃないって。大体、アキラ君とは知り合ったばかりなんだから」と慌てていった。本当にそういうのじゃない。
「ま、いいんじゃない。よく知らないんだったらこれからたくさんお話でもしなさい。じゃあ、またね!」と舞子はわたしの言うことなんかろくに聞かずに食堂を後にした。やがて、アキラ君が食事を盆の上に載せてこちらに戻ってきたが、わたしから少し離れたところにあるテーブルに座ろうとしていたので、「アキラくーん」と渋々声をかけた。
彼がこっちにやってきて、「あれ、友達はどうしたの」と聞いてきたので、「用事があるって先に帰っちゃった」と適当に答えた。「そこに座っていいよ」

 アキラ君は美味しそうに白身魚のフライを食べていた。もともとおとなしい性格なのか、それとも照れているだけなのかはわからないけど、ひたすら黙々と食べ続けていた。彼があまりに美味しそうに食べているので見ているだけでもなかなか楽しかったのだが、まったく会話をしないというのもなんなので、とりあえずこう切り出してみた。
「ねえ、アキラ君って出身、何処なの?」
「え、出身かい?」と食べ物を頬張らせたまま言い、一呼吸おいて咀嚼し終えてから「出身は北海道だよ。北海道の旭川ってところ」と言った。
「北海道?へぇー、またずいぶんと遠いところからやって来たのねぇ」とわたしは驚きを隠さなかった。「それで、なんで京都に来ようと思ったわけ?」
「わけ。訳っていうほどの深い理由はないんだけど...一度、北海道を出て全く違う環境のもとで、ゼロから自分の力で暮らしてみたかったって事かな。いや、なんか格好良く聞こえちやうかもしれないけど、本当にそう思ったんだ」と彼は顔を赤らめながら言った。「山野さんはどこから来たの?」
「私は東京から来たの」
「東京?東京からわざわざ京都に来る人もけっこう珍しいと思うけど。ほら、東京って腐るほど大学あるんだし」
「わたしもアキラ君とけっこう似たような理由よ。誰も知り合いのいないところに行って暮らしたいと思っていたの。まあ、舞子...さっき一緒にいた子とは中学からの友達なんだけど」と私は苦笑を交えていった。
「ふーん、そっかぁ。山野さんもそう思って京都に来たんだ。俺らくらいの年齢って、旅をしたくなる年頃なのかなぁ」と彼は茶化して言った。
偶然とはいえ、お互いに似たような思いを抱えて京都にやって来たという事実を知ったことで、彼に対して少しだけ親近感を抱いた。それに彼が大学生活を旅と捉えていることはわたしを良い意味で驚かせた。旅という言葉が彼の口から出るまでちっとも気づかなかったのだが、おそらくわたしも「旅」をしたかったのだろう。
「山野さん。俺、これから授業があるからそろそろ行かなくちゃいけないんだ」といつの間にかきれいに食事を平らげていたアキラ君が言った。
「そっか。頑張ってね」とわたしは言った。
「ねえ、アキラ君」
「うん?」
「御飯、美味しかったでしょ?」
「え、あ、うん。うまかったよ。でも何で?」
「あんまり美味しそうに食べていたからよ」
「え、そっか。ハハハッ」と彼は苦笑いしながら「じゃあね」と言って足早に去っていった。
「じゃあね」

 わたしは今まで舞子との付き合いを除けば孤独といえなくもない静かな生活をこの地で送ってきて、それはそれで別に寂しくはなかったのだが、アキラ君という「旅人」と知り合ったことで何だか妙にほっとした気分になった。
 そんなことを考えながらコーヒーの残りをゆっくりと飲み干した。ふと窓の方を見てみると、まださっきの学生達がそこにいて談笑していた。彼らはまるで彼らのまわりだけ時間が止まっているかのようにその風景に留まっていた。

(12月26日アップ)

 行きたい大学の一つではあったのだが、わたしの通う大学は第一志望というわけではなかった。もっと正確に言うなら、第一志望という概念はある日を境にわたしの中から消え去った。その日以来、東京で暮らすことは耐え難い苦痛を味わうことと同義となった。それで、わたしが東京の大学に進学することを希望していた親には大変申し訳ないが、それらの入学試験はわざと落ち、悲しみに暮れる親を後に鞄一つで京都に向かう新幹線に飛び乗った。

 わたしの住む町の駅に降り立った時、わたしは文字通り言葉を無くした。一言で言えば、そこは「塀のない収容所」だった。本当に、何もないのだ。噂には聞いていたが聞きしに勝るとはこのことで、眼前に広がる風景は完全にわたしの想像を凌駕していた。「こりゃ、思った以上に静かな生活になりそうだな」とわたしは心の中で呟いた。
 わたしが暮らすことになるワンルームマンションにはまだ多くの救いが残されているかにみえた。大学から歩いて5分程で、設備はしっかりしていて、有線放送は標準設置されていて、愛想の良い管理人さんは本当によく働き、おまけに家賃は条件と比して異常に安かった。壁は薄かったし、おまけにかなりの数の男子学生がそこに住んでいたのだが、まあ良い社会勉強になるだろうと楽観的に考えていた。それに、破格の家賃の魅力はそれを補って余りあると思ったのだ。
 その年の4月はわたしにとって文字通り地獄の季節だった。入学式当日の夜からマンションでは酒盛りが毎夜繰り返された。それらの大半は男子学生同士で集まって行われるものであり、数人の男が女の子の部屋に押し掛けて無理矢理上がらせてもらうという犯罪行為の二、三歩手前のような例も僅かながらあった。それらの会話のやりとりは玄関口やベランダから全て聞こえてきた。マンションは共同廊下と部屋との間には玄関のドア一つしか隔てるものが無く、彼らの無遠慮な大声や奇声は聞きたくなくても聞こえてくるのだ。
 大学に入るという事は人をここまで浮かれさせるのか、とわたしはまるで他人事のように思った。今まで押さえつけていた欲望の解放、難関大学の入試をパスしたという驕り、それとも純粋な若さ...一体何が彼らを突き動かしているのか。何に彼らは操られているのか。

 わたしの部屋にも知り合いの男の人が押し寄せてきたことがある。
「いやあ、学校近くの居酒屋で飲んでたんだけどさぁ、つい終電逃しちゃって帰れなくなったんだ。ほら、俺ん家って大阪だろ?で、もし良かったら彩子ちゃんの部屋で時間潰させてもらえないかな?」
「え...?う、うん...いいよ。なんにもない部屋だけど」
わたしは別に人付き合いを避けているわけではなかったし、まあ、大学生活にはこういうこともあるだろうと思っていたから、ちょっと怖くもあったけど彼を部屋に上げた。でも、彼の優しい口調の向こうに欲望が見え隠れしていることにすぐに気付いた。視線、手の動き、不自然な会話、それらは彼以上に彼を語っていたのだ。耐えようとも思ったが、次第に気分が悪くなってきて、終いには怒りすら込み上げてきたので、「ねえ、本当に悪いんだけど、やっぱりどこか他の友達のところ、当たってくれないかな」と切り出した。
「え?...そうか...。...いや、俺の方こそいきなり押し掛けてきてごめんな」と彼は最後まで優しい口調を保ちながらわたしの部屋を後にした。しかし彼は二度とわたしと会話を交わすことはなく、二週間後にはもう恋人を作っていた。
 男の人の欲というものはわたしなりに理解しているつもりだ。それは生物学的に言えば至極当然のものだとすら思っている。わたしが嫌なのは、彼らがその本能を優しさという偽善の鎧で武装することと、わたしのことを山野彩子としてではなく女としてしか見ていないことだ。誰もわたしを知ろうとはしない。誰も。

 5月の初めにはマンションに空室が幾つか出来た。それらは女の子が住んでいた部屋で、わたしがマンションで知り合った女友達の中の数人もここでの生活に音を上げて退散していった。
 それでもわたしはそのマンションに留まった。エアコンの利き具合は破滅的に悪く、温水器はよくストライキを起こしたが、それにも慣れた。薄い壁の向こうからいつも隣室の男子学生が弾き語りをする様子が聞こえてきたが、それを楽しめるようにすらなった。彼は本当にいろんな歌を熱心にうたっていたのだ。

 「そんな部屋とっとと出て、わたしのマンションにでも引っ越しなさいよ」と舞子はよく言った。彼女は女子学生専用マンションに住み、安全で快適な生活を送っていた。住人同士での交流も盛んなようだった。
「まったくもう、よくそんな獣の巣窟みたいなところに住んでいられるわね」

 たしかにここは風景といい男の人といい、人外魔境なのかと思わずにはいられなかった。でも、程度の差こそあれ結局のところ、どこだって似たようなものだ。良い事もあれば悪い事もある。良い人もいればあまり良くない人もいる。

 結局、わたしは三年次進級に伴って通うキャンパスが京都市内に移るまでの2年間をそこで過ごした。

(1月5日アップ)

 日々は淡々と過ぎ去った。そこでのわたしの生活模様は傍目に見るとひどくつまらないものと映るだろう。でもわたしにとっては、その日々は夕暮れの砂浜に煌めく貝殻のように本当にかけがえのないものだ。アキラ君が自らの大学生活を旅と捉えていたように、わたしも何処かを目指して流れる日常を流離っていた。のっぺりとした単調な生活という服をその時のわたしから剥ぎ取れば、様々な物事に対する想いの錯綜という裸をわたしはいとも簡単にさらす。たぶん、わたしはわたし自身を探し求める旅をしていた。だから、わたしはいろいろな事に対して敏感でいたいと願い、より遠くを見渡すことの出来る眼を欲した。わたしの力ではどうしようもないことの幾つかは友によって助けられた。わたしの大切な友人はわたしの心を陽光から閉ざしていた重い扉をこじ開けてくれた。それは本当に岩のように重い扉だった。めまぐるしく変動する世界の歴史と比せば、わたしのその2年間はギリシアの暗黒時代のように何一つ記述されることなく闇へと葬り去られるだけの歴史なのだろう。それでもいい。だけど、二つだけ、言えることがある。わたしはその暗黒の中で少しだけ成長したということと、その記憶は誰の手によってしても決して葬り去ることなど出来ないということだ。
 でも当然のことだけど、その時の流れに再びわたしの身を委ねることは出来ない。伝えられなかった感謝の気持ちを伝えようと思っても、傷つけた人にせめて詫びようと思っても、わたしはそこに帰ることが出来ない。今、わたしに出来る全てのことは、その時の想いを少しでもこぼれ落ちないように胸に抱いて、遙か遠い地平を見渡しながら果てることのない大地をゆっくりと歩き続けることだ。

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1999年1月 6日

第二章

 目が覚めると、時計の針は8時35分を指していた。驚いてわたしは飛び起き、急いで身支度を始めた。毎週水曜日は朝9時から英語の授業があるのだ。まずFMラジオをつける。冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、コップに注がずにそのまま飲む。火花の出るような早さで歯を磨き、顔を洗う。鞄にテキストとノート、筆記具、それに読みかけの文庫本とウォークマンを押し込む。わたしは化粧というものをあまりしないので、急いでいるときには何かと助かる。ブルージーンズを履き、タイトシルエットの真っ黒なTシャツを頭から被る。髪が少しだけ乱れているが、致命的なほどではない。肌色は健康そのものだが、さすがに眼は幾ばくかの睡眠を要求している。支度を終えるとわたしはスニーカーを履いて部屋を飛び出し、耳にヘッドフォンを突っ込み、学校に向かって自転車を走らせた。
 息を切らしながら教室に入った時、腕時計は9時ちょうどを示していた。このクラスを受け持っている、ひどく元気のいい女の先生はまだ来ていなくて、学生もまだ半分くらいしか集まっていなかった。ちょっと拍子抜けしながらわたしは知り合いに挨拶をして、クラスで指定されている自分の席に座った。
 鞄からテキストと筆記具を取り出し、汗を拭おうとハンカチを取り出したところで、アキラ君がやはり息を切らして教室に入ってきた。おそらく彼もわたしと同じような朝を迎えたのだろう。
「おはよう」といって彼はわたしの後ろの席に座った。そこが彼の席なのだ。
「おはよう」とわたしも後ろを振り返って挨拶をした。「アキラ君、寝坊したでしょ?」
「え、やっぱりわかる?でも山野さんだって人の事言えんだろう。ほら、そんなに汗をかいて」
「こ、これは...そうよ。わたしも寝坊したの」とハンカチで額を拭いながらわたしは寝坊を認めた。「でもこういう時、学校の近くに住んでて良かったって思うけど」
「へぇー。俺もここの近くに住んでるんだ。山野さんは何処に住んでいるの?」
と彼が訊いたところで担当の先生が教室に入ってきた。
「あらお二人さん、仲の良いこと。ひょっとして付き合ってるの?」

 授業が終わると、わたしはいつものように体育館前にある広場のベンチで体を横たえ、天を仰ぎながら文庫本を読んだ。季節は初夏に差し掛かっていた。木々に生い茂る、濃い緑を湛える葉が風に揺れる音を聞きながら本を読んでいると、とても良い気持ちになれた。その微睡みに近い心地良さの中で、やがてわたしは本の世界に吸い込まれていった。
 ...時代は明治で、かつて男は愛する女と友人との結婚を仲立ちした。しかし男は女を愛し続けている事実をついぞ否定できなかった。男は流れる心のままに生きるか、構築された理性と意志に従うか葛藤した...。
 その時読んでいたのは夏目漱石の『それから』だった。文字を追いかけていくうちに、わたしの視界は体育館前の広場から明治の東京の風景へと移った。そこでは、わたしは鳥だった。主人公・代助の頭上で彼の見る景色を眺めることも、その一瞬の後に空高く舞い上がり、時代を鳥瞰することもできた。代助の眺める地平の向こうには一体何があるのか、鳥となったわたしには知ることが出来た。ただ、それを彼に伝えることは出来なかった。そこでは、わたしは彼の心の行く末を眺める傍観者に過ぎなかったのだ。

 鳥となって空高く舞い上がったわたしは、しかし、すぐに地上へと引き戻された。誰かがわたしを呼んだのだ。ベンチから体を起こし、声のする方へ視線を向けると、そこにはアキラ君が立っていた。
「ごめん、邪魔しちゃった?」と申し訳なさそうにアキラ君が言った。
「ううん。大丈夫だよ」
「隣、座ってもいいかい?」
「うん。いいよ」
「ありがとう。あ、ちょっと待ってて」
アキラ君はそういって、体育館の向こう側にある自動販売機コーナーへと駆けていき、しばらくの後、飲み物の入った紙コップを二つ、両手に持って戻ってきた。
「はい、これは俺からのサービス。たしか山野さん、コーヒー好きだったろ?」と言って彼はわたしにアイスコーヒーを差し出した。
「え、いいの?お金、払うよ」
「いや、今回だけさ。ま、たまにはいいじゃない」と彼はニコニコしながら言ったので、わたしは今回だけそのご厚意に預かることとした。
「それにしても、わたしがコーヒー好きだってこと、よく知ってたわね」
「へへっ、超能力さ、と言いたいところだけど、ほら、春に一緒に飯食った時、美味しそうにコーヒー飲んでたろ。あれ」
「ふむ、なるほど。でもよく覚えてたわねぇ」とわたしは少し感心して言った。
「今日は暑いね」と言いながら彼はわたしの隣に座った。ちょっとだけ距離を置いて。

「山野さんって、あの英語の授業、毎回欠かさずに出てるよね。偉いよなー、朝イチの講義なのに」
「何言ってんの。そういうアキラ君だって無遅刻無欠席じゃない。ま、今日は危なかったけど」
「俺は...別に深い理由なんてないよ。水曜日はあの授業だけだし、それサボると何だかやることなくて虚しいだろ?」
「そうね。わたしもそんな感じよ。それに何かと刺激をもらえるし。ほら、高校までの詰め込み英語と違って生き生きしてるじゃない?英語が。それに先生も面白い人が多いし」
「面白いと言うよりは、ちょっと変わってると言った方が良いかもね」
「ふふっ」
「山野さん」
「ん?」
「山野さん、英語の授業が終わった後、正午くらいまで、いつもここでさっきみたいに本、読んでいるよね?」
「え?知ってたんだ。だったら声かけてくれればいいのに」
「いや、いつも真剣な顔して読んでいるから邪魔しちゃ悪いな、と思って。今日は思い切って声かけてみたけど」
「ふぅん。別に遠慮なんかしなくていいよ。わたしはただ単に暇つぶしをしてるだけよ。それにアキラ君」
「何?」
「わたしのことは山野さんじゃなくて別の呼び方で読んでいいよ。サイコでも何でもアキラ君の好きなように」
「え、え?そんな急に言われても...」
「遠慮しなくていいのよ。ふふ。どうやらすぐ遠慮するのはアキラ君の悪い癖みたいね」
「うーん...。......。...サ、サイちゃん」
「え?」
「彩ちゃん。彩ちゃんって呼ぶよ」
「うん。よし、決定!彩ちゃんって人から呼ばれるのは初めてだけど、悪くないわ、それ。そうと決まったら、アキラ君」
「何?」
「何じゃないわよ。練習よ練習。その呼び方でわたしを呼んでみるのよ」
「...彩ちゃん」
「はいっ!」
「彩ちゃんっ!」
「オッス!」

「彩ちゃん」とアキラ君はコップの中の氷をがりがり噛み砕きながら言った。太陽は天頂から私達を照らしていた。
「なあに?」
「彩ちゃんって、水曜日はもう授業はないの?」
「そうよ」
「そっか。じゃあ...」と彼が何か言いかけたところで、背後から声がした。
「あら、彩子じゃない。それと、隣にいるのは...アキラ君だったよね?」
わたしとアキラ君が驚いて後ろを振り返ると、木陰の中に舞子と彼女の彼氏である隆一君が立っていた。
「こんちは」とアキラ君は舞子に向かって言った。
「ごめんなさいね。せっかくいい雰囲気だったのに」と舞子がからかうようにわたしに言った。
「だから、そういうのじゃないってば」
「うんうん、わかったって」
「彩子ちゃん、久しぶりだね」と隆一君が言った。
「お久しぶり。隆一君もしばらく見ない間にずいぶんかっこよくなったじゃない」
「でしょう?わたしの教育の成果よ」と舞子が自慢げに言った。
 舞子と隆一君は大学入学早々、サークルを通して知り合い、入学一週間目にはもう付き合い始めていた。わたしもそのサークルの見学に行ったので、彼とはその時に知り合ったのだ。初めて会った時、彼のことをたしかに顔立ちの良い好青年だとは思ったけれど、いまいち垢抜けない印象があった。だけど、その垢抜けなさこそが彼らしくもあったような気がする。しかし、数ヶ月と経たないうちに彼は変わった。タイトにまとまったモード系の服装、胸元には銀のアクセサリー、耳を覆い隠す髪の色はブラウン、眉毛も大層立派に刈り揃えられている。なるほど彼は見事なまでに今風の大学生のイメージに自らを同化させることに成功していた。
「そうだ、彩子ちゃん」と隆一君が言った。
「何?」
「今日の夜、俺と舞子で京都市内に出向いて酒飲みに行くんだけど、よかったら彩子ちゃんも一緒に来ないか?」
「え?そんな急に...」とわたしは少し驚き、戸惑いながら言った。
「いいじゃないの。あんた、どうせ水曜日は暇してるんでしょ?」と舞子が言った。
「どう?彩子ちゃん」
「...アキラ君と一緒だったらいいよ」
「ええっ?」今度はアキラ君が驚く番だった。
「どう、アキラ君?」
「お、俺も別に暇だけど...。うーん...。...うん、いいよ。行こう」
「よし、決定!ダブルデートってわけね」と舞子が楽しそうに言った。
「ずいぶん古い言葉ね、それ」とわたしは極めてクールに言った。舞子達は約束の時間と待ち合わせ場所を私達に伝え、去っていった。

「彩ちゃん。どうしてまた俺なんかを誘ったの?」
「ばーか。別にアキラ君を誘ったわけじゃないわよ。恋人達を目の前にしながら、一人で酒を飲む馬鹿がどこにいるのよ。まったく」
「な、なんだ。そういうことか。いや、そうだよな」とか何とか、アキラ君はぶつぶつと呟いていた。
「さ、約束の時間までたっぷり時間あるんだし、それまで一緒に暇つぶししましょ」

 アキラ君のことを思う。
 大学に入学してから一週間が過ぎ、前期講義が一斉に始まった。わたしが所属する法学部では専門分野の入門講義を一年次から受講することが出来たのだが、4月の時点ではどの講義も座席は受講生で埋め尽くされた。知真館の大講堂にはまだ初々しい表情を浮かべた新入生達で溢れ、立ち見が出来るほどだった。講義の進め方は、もちろん教授の方針によって様々で、熱く法の精神を語る先生もいれば、ひたすらテキストの朗読に努める教授もいた。ただ、いずれの講義も致命的な問題があった。あまりに講堂が大きいために学生は必然的に受け身の受講を強いられるのだ。まるで教授がブラウン管の向こう側で喋っているようだ、とよく思ったものだ。
 問題は学生側にもあった。うるさいのだ。よく先生が「頼むから受講する以上は静かにしていてくれ。喋るのなら退席しても良いから」と注意していたが、全くその通りだった。彼らは教室の後ろの方に陣取りながら実によく喋った。この事実はどう考えてもおかしな話だった。大学は学生が各々の判断で行動するところなのだから、授業を受けたければ自分の意志で積極的に受ければいいし、話をしたいのなら授業をさぼり、外の広場ででも気の済むまで存分に喋っていればよいからだ。誰も彼らを責めることはない。なのに彼らは授業をさぼることも出来ず、かといって授業を聴くこともできなかった。結局のところ彼らは何もできなかったのだ。
 ともかくそれらの要因があってか、わたしの受講スタイルは自然に確立された。最前列から5列以内の座席からその日の気分次第で適当に選んで座る。持ち物は、テキストにノート、六法、それに文庫本と自販機で買ってきたコーヒーだ。講義が定刻通りに始まることはまずなくて、普通はいつも5分から10分は遅れて始まったから、その時までコーヒーを飲みながら文庫本を読んでいたのだ。一緒に座ろうよ、と友達に誘われることも多々あったが、わたしは何故か授業中は一人でいる方が落ち着くので、申し訳なかったが、いつも適当な理由を付けて断っていた。ただ、最前列に座るということはかなり覚悟のいる行為だった。というのも、そこには司法試験や各種資格試験を目指して猛烈に勉強している人や、あるいは学習系のサークルに所属していて仲間と競うように勉強している人達の特等席と化していたからだ。わたしのような、特に法曹への道を目指しているわけでもなく、競争するほど熱心には学習してもいないただの一学生がその聖域に踏み込むことは半ば領空侵犯みたいなものだった。一言で言ってしまえば、わたしは場違いだった。わたしはその聖域を守る人々とは人間的雰囲気からして明らかに浮いていた。彼らが特別なのかわたしが世間一般の流れからひょっとしてドロップアウトしているだけなのかは分からない。だけどともかく彼らは何か一般人とは異なる雰囲気を湛えていた。あるいは彼らがその虚像の玉座を作り上げていたのかもしれない。
 ごく普通の一学生であることでかえって目立ってしまう、という奇妙な状況の中、わたしはそれでも自分のペースで欠かすことなく授業に出席したのだが、すぐに気付いたことがあった。わたしの他にもう一人、ごくごく普通の学生がたった一人でその見えない領域を切り裂いていることに。そして、それがアキラ君だった。彼もわたしと同様、その場に座っていることはどう好意的に考えても場違いだった。彼も、周りが見えなくなるほど法学の勉強に一心不乱に打ち込んでいるわけではなかったことは一見してすぐわかったし、鼻にかけているようなところも更々なかった。でも、徒党を組んで最前列を陣取っている法学者の卵達よりは、この不思議な雰囲気を湛えた一人の男の子の方が正直な話、ずっとかっこよく思えた。
 語学の方は、大講堂での講義とは対照的に、とてもしまりのある授業風景となるものが多かった。小クラスで行われる語学の授業は、個性的な先生が多かったことも手伝って、少なくともわたしにとってはとても魅力のあるものが多かった。わたしは、いささか問題のあった専門科目の講義システムにある程度見切りをつけ、法律の勉強の方はマイペースでやっていくことに決めた。同時に、少なくとも2年までは語学の勉強に力を入れることにした。
 そして、とある英語のクラスで不思議な男の子、アキラ君とは本格的に知り合うことになる。

 地表の緑は初夏の日差しに照らされて鮮やかに映えた。少しだけ熱気を帯びた風が二人の間を吹き抜ける。昼下がりの校舎は、法学部の授業があまりない水曜日ということもあってか驚くほど人の気配が少なく、私達はそんな静かで広大なキャンパスの中を当てもなく歩いていた。
「アキラ君の趣味って、何?」と歩きながらわたしは右隣にいるアキラ君に訊いてみた。
「趣味。趣味はねぇ、音楽。俺、実はギターやってて、よく弾き語りをしているんだ」
「おおっ。弾き語りかぁ。いいねぇ。わたしも一応楽器やってたのよ」
「へえー。何の楽器?」
「フルート。ほら、あの銀色の横笛みたいなヤツ」
「いや、それくらい知っているよ」とアキラ君は笑いながら言った。「だって俺、高校までずっと吹奏楽やってたんだから」
「吹奏楽やってたんだ。じゃあ、ますますわたしと同じじゃない。わたしもやってたのよ吹奏楽。高校までね」
風は相変わらず緩やかに流れていて、ちょっと手入れをさぼったわたしの髪の毛が心地よく風邪になびいていた。
「そういえば、わたしの隣の部屋の人も、よく弾き語りの練習をやってるっけ」とわたしは独り言のように呟いた。
「そうなんだ。大学生になった途端、急に弾き語りをやる人が増えるんだけど、あれって面白いよな。やっぱ暇だからかな」と彼は茶化して言った。
 それからも、やはりぐるぐるとキャンパスを彷徨いながら、私達はいろんな話をした。その多くは他愛もない話だった。昨日のあのテレビ番組が面白かっただとか、ロックは絶対に大きな音で聴くべきだとか、女が朝の化粧が時に面倒と思うのと同じくらい男の髭剃りは面倒くさいだとか、そんな話を飽きることもなく延々と話した。
 正午をだいぶ超えた頃にはさすがに歩き疲れ、おまけに暑さのせいで二人とも汗をぐっしょりとかいていたので、ラウンジの中に入って休むことにした。
「こりゃ、後で家に帰って着替えてこないと駄目ね」とわたしはたっぷりと汗を吸ったTシャツを指で摘んで引っ張りながら言った。
「そうだね。俺はその間、この辺をジョギングでもしているから」とアキラ君は言った。「どうせ汗をかいてしまったんだし、どうせなら走って汗をかくだけかいてからから俺も着替えにいったん戻るよ」
「へえー。アキラ君ってジョギングやってるんだ」とわたしは少し感心していった。なるほど、どおりで運動部に入っているわけでもないのに日焼けしているのだ。それに体も痩せているわけではないけど程良く締まっている。ストイック、と言えなくもなかった。
「じゃあ、ここでいったんお別れして、後で駅前で待ち合わせして、一緒に京都に繰り出そう」とアキラ君が提案した。
「賛成!」とわたしは同意した。そして二人はいったん別れた。
 家に向かって自転車をゆっくり走らせながら、わたしは楽しい気持ちで胸がいっぱいになっている自分に気付いた。そして、久々にそんな楽しい気分になることが出来たのは、アキラ君と一緒にいたからだった。

 駅には既にアキラ君がいた。
「彩ちゃん、シャワー浴びてきた?」とアキラ君が訊いた。
「うん、そうよ。当たり前じゃない。あんなに汗かいたんだから」
「うん、イヤ、そうだよな。俺も浴びてきたし。ただシャンプーの匂いがしたもんだから...」
「何?興奮でもした?」とわたしはからかった。
「ば、ばか!そ、そんなんじゃないよ」とアキラ君は必死で弁解した。純粋な人なのだ。
「さ、行こうよ」
 近鉄電車の窓から見る風景は茶畑や瓦屋根の民家が広がるいつも通りの京都郊外の風景だった。でも今、その風景が何となくそれまでと違うように感じられた。思えば、京都市内からこの街に来るために最初に乗った乗り物もこの近鉄電車だったのだけど、その時は夕暮れの切ないオレンジ色の光も手伝ってか、どことなく切ない想いとともに眼前に広がる景色を眺めていたような気がする。だけど、その時とは何かが違う。何が違うのかは分からないけど、それは決して悪くはない感覚だった。
「何ぼんやり考えてるの?」と隣でアキラ君が菓子パンをむしゃむしゃ食べながら訊いた。「別になーんにも考えてないわよ」

 待ち合わせの場所には舞子達がまるで仕事を終えてアフターファイブへと繰り出す社会人のような出で立ちで私達を待っていた。それから比べると私達は投げやりと指摘されても仕方ないくらいに簡素な身なりだった。舞子達と私達を並べると、まるでこれから異種格闘技選手権でも行われるかのようだった。
「彩子達、夕御飯は食べたの?」と舞子が訊いてきた。
「いや、そういえば食べてないわ」
「そう。じゃあ、しっかり食事もできるところにしよっかー」
「うん。わたし、いつも行っているイタリア料理屋がいい」とわたしは勝手に自分の希望を先に言っておいた。
「よし、そうしよう」と舞子は言って、結局殆ど舞子とわたしの二人だけで物事を勧めてしまった。はっきり言って隆一君は若干主体性に欠けるところがあったし、アキラ君が店に詳しいとはとても思えないからこれでいいのだろう。

 店の中はいつものように海外のポップ音楽が小さな音量でかけられていた。内装は白を基調としたお洒落で、それでいて飾り下のないこざっぱりとしたものだ。夕食時と言うこともあって、店は沢山の客(その多くは恋人達だった)で賑わっていた。
 舞子はサーモンのクリームパスタを、隆一君はカルボナーラをそれぞれ注文し、ふたりで白ワインを頼んでいた。わたしはアラビアータを、アキラ君はわたしが勧めた茄子とトマトのスパゲッティを注文した。また、二人でイタリア産の赤ワインを一本注文した。料理とお酒が運ばれてくると、何に対してなのかよく分からないが、とりあえず4人は乾杯をした。料理の方は相変わらず申し分なく、ただアラビアータは唐辛子がよく効いていて少しだけ辛く、わたしは汗をうっすらと滲ませながらゆっくりと口にした。アキラ君は例によって実に美味しそうに茄子とトマトのスパゲッティを食べていた。美味しそうに食べ物を食べることにかけてはアキラ君は天才だな、と思いながらわたしは微笑みとともにアキラ君を眺めていた。
「実は今日、私達が付き合いだしてから2ヶ月目なんだ」と舞子が言った。そういえばもうそれくらい経ったっけ、とわたしは頭の中で振り返ってみた。
「おめでとう」とわたしは言って我々は再び杯を傾けた。
「でも、付き合うってのも大変だよ」と隆一君が言った。「だってそれなりに身なりや行動にも気を使わなくてはならないだろうし。ある種のステータスだからな、付き合うって」
彼は半分冗談で言ったのだろうが、わたしには何か引っかかるものがあった。
「でも、愛があるから頑張れるって?」と舞子は隆一君に茶化すように訊ねた。が、あまりにその台詞が寒かったのか隆一君は軽く微笑んだだけで取り合わなかった。
「ふーん、大変なんだね、付き合うって。わたしは面倒くさがり屋だから、そんなに周りに気を使ってられないわ」とわたしは言った。
「彩ちゃんはそのままでいいんじゃないかな。変に気を使われたんじゃ気持ち悪くて」とアキラ君は笑いながらわたしに言った。
「それはそうね」と舞子も同意した。「それにね、アキラ君。彩子ってこう見えても結構もてるんだから。放っておいても悪い虫がたくさんよってくるのよ。だからアキラ君、うかうかしてたら駄目よ。今のうちに攻めときなさい」
「舞子!」とわたしは語気を強めて舞子に言った。アキラ君の顔は少し赤くなっていた。
 大体において時は楽しく過ぎた。4人はそれぞれの料理を平らげた。アキラ君に「どう、料理美味しかった?」と効いてみると「うん、めっちゃ美味かったよ」と至極ご満悦そうな表情で答えた。結局我々はその店には2時間ほどいた。舞子達も私達もワインのボトルをすっかり空にしたが、まだ飲み足りないと言うことで皆の意見が一致し、舞子の提案で店を移して本格的に飲むことにした。
 次に入った店では、舞子は何か甘ったるそうなカクテルを、隆一君はモスコミュールをそれぞれ頼み、わたしはジントニックを、アキラ君はビールをそれぞれ注文した。さっきの店とは対照的に店内はロックが大音量でかかっていて、隣にいる人の話が聞き取りにくいほどだった。フロアの中央辺りの席で3人連れの男が同じく3人連れの女の子達に一緒に酒を飲まないかと誘っていた。カウンターでは陽気な外国人の店員がカクテルを作っていた。フロアの隅の方では社会人らしき恋人達が肩を寄せ合っていた。男が女の耳元で何かを囁いているようだった。
「そっか。彩子ちゃんはもてるんだ」と隆一君がピスタチオの殻をむきながらさっきの話を蒸し返すかのように言った。「だったら簡単に彼氏なんか出来そうなものなのにな。可愛いし」
「今は何となく一人でいたい気分なのよ」
「高校の頃は付き合っている人いたんだけどねぇ。今じゃ頑なに一人を通しているんだもの」
「別に頑なになんかなってないわよ」
「いや、あんたが気付いていなくても、絶対に今の彩子は心を閉ざしているよ。...まあ、あれは相手が悪かったよ」
わたしは何も言わずにジントニックを飲み干し、カウンタへ行ってソルティドッグを注文した。

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1999年1月 7日

第二章承前

 カウンタまで歩いてみて、自分の足取りから思ったよりも酔いがまわっていることに気付いた。そういえば、アキラ君と二人で飲んだとはいえ、さっきのイタリア料理店で既にワインを一本飲み干しているのだ。意識はしっかりしている。別に気分が悪いわけでもない。ただ、少しばかり気分が高揚していた。
 席に戻ると、舞子がやたら楽しげにアキラ君と喋っていた。
「なーに楽しそうに話しているの?」とわたしは二人に訊いた。
「アキラ君を口説いていたのよ。ふふふ」と舞子が楽しそうに答えた。
「あらそうですか。じゃあ、わたしは隆一君を口説こうかしら」
「俺も彩ちゃんに乗り換えよっかなー」
 幸いにして、この4人は皆酒に飲まれるということはなく、4人とも見ていてとても気持ちの良い酔い方をしていた。わたしは正直に言うと、大学の新歓コンパやクラスの親睦会のような大規模な宴会に特有の、勢いだけでなし崩し的に流れる雰囲気は苦手になり始めていたのだが、こういう飲み方なら悪くないな、とたわいもない話をしながら考えていた。

「みんな、大学生活についてどう思う?」と唐突に、隆一君がポッキーでグラスの中をかき回しながら訊ねた。店内にはブライアン・アダムスの『18 til i die』がやはり大音量で流れていた。
「どう、って言われても困るわねぇ。ま、わたしはそれなりに楽しくやってるわよ。大学のシステムや講義にしても、中には失望させられるものもあるけど、どこの大学行ったって似たようなもんでしょ?なんにしても結局は私達の気の持ちようなのよ」と舞子が隆一君を見つめながら答えた。
「わたしは...まあのんびり暮らしているけど、やっぱり自分のやりたいように時間を使えるって事は大きいわね。大学に関しては最初からちょっとだけ冷めた見方をしてたってせいもあるかもしれないけど、別に希望も失望も抱いていない...かな。これって寂しい物の見方なのかもしれないけど」とわたしは言った。「でも、大多数の新入生がどうして根拠もなくあんなに浮かれているのかは、私にはよく分からない」
「俺も、自分の時間がもてるって事はでかいと思うよ」とアキラ君がわたしに同意した。「あとは4年間のモラトリアムを如何に過ごしていくか、だと思うよ」
モラトリアム。確かに、ある意味ではこの大学生活という特殊な時期をそう捉えることができるかも知れない。
「俺は思うのだけど」とアキラ君は続けた。「たぶん多くの大学生にとって、大学生活って言うのは、自分のやりたいことをやると言うよりは、本当に心からやりたいことを見つけるための期間なんだと思う。だから、みんな積極的にいろんな事に挑戦したり、ちょっと背伸びをしたり、あるいはじっと自分と向き合ったりしているんだと思う」
 本当に心からやりたいこと、わたしにとってそれは一体なんだろう?やりたいことや興味のあることは沢山ある。でも、自分の人生を賭してまで取り組みたいこと、わたしにとってそれはいったい何なのだ?わたしはじっと考えてみたが、さっぱり思い浮かばなかった。あるいはそんなものはわたしの中には存在しないのかもしれない。わたしはソルティドッグを一気に飲み干した。
「そうか。みんなしっかりしてるもんな」と小さな声で呟いた後、隆一君は続けた。「俺は、最近不安になったりすることがあるんだ。大学に入って、それなりにカッコつけるようにもなった。流行り物にも敏感になった。いろんな奴らと、いつもわいわい楽しくやっている。でも、時々、自分はただ流されているだけなんじゃないか、って思うんだよ。今どきの大学生らしい生活ってヤツにはまればはまるほど、これは作り上げられた道をただ歩いているだけなんじゃないかって不安になるんだ。そして4年後には、卒業して、たぶん普通に就職でもすると思う。その頃には、俺は大量生産された大学卒業者の一人に過ぎない存在になっているんじゃないじゃかって...」
そう言い終えた彼の顔はさっきまでと同様、優しい笑みを浮かべていた。でも、彼の目だけは何かを訴えかけていた。それはまるで、檻の中へ押し込まれて今にも何処かへ連れて行かれようとしている小犬の、何かを懇願する目だった。
 少しの間、沈黙が続いた。やがて『18 til i die』は終わり、店内にいる人々の話し声が雑然とした音像を作り上げた。さっき見たフロア中央の3人連れの男達は女の子達をひっかけることに成功したようで、自分は何処何処大学の出身なんだと自己紹介したり、学生証を見せ合ったりしているようだった。
「それだけ分かっていれば大丈夫だよ」とアキラ君が優しい声で隆一君に話しかけた。「本当に怖いのは、その流れとか作られた道ってやつが見えなくなった時さ」
「難しい問題よね、個性とか生き方って」と舞子は言った。「まあ、私は馬鹿だからあんまり難しいことは考えないで、自分が楽しいと思えることにどんどん顔を突っ込んでいるだけだけどね」
「そう、問題はそれなんだ。何でもかんでも自分のやりたい通りにやっていこうとすると、周りから浮いてしまうんじゃないかって思って怖くなるんだ」と隆一君は少し焦りの混じった声色で舞子に言った。
 少しずつではあるが、徐々に私達の間に気まずい空気が流れはじめた。
「まあ、いくら自分のやりたい通りに生きるって言っても、社会の中で生きていく以上、絶対にいろんな人との関わりがあるわけだし、少しは折り合いをつけることも必要になってくるよね。いくら自由自由って言っても、人を不快にする自由はいけないでしょ。その辺はもう大人なんだし、理解する必要があると思うよ。その辺は一応頭の片隅に入れといて、後は余計な心配しないで、楽しく生きればいいのよ。『俺が浮くのは、俺じゃなくて周りが悪いんだー』とか言ってさ」
「まあ、もういいじゃない。先は長いんだし、こう言うことはじっくり考えた方が良いのよ」
と私は言って、なんとかこの話題を中断しようとした。
「そうね」
「うん、その通りだ。そうしよう」
 話が平行線をたどることは誰の目にも明らかだったせいか、みんな私の提案をあっさりと承諾した。こうして、とりあえず、このややこやしい問題から逃れる事ができた。しかし、生温い風の中にいるような居心地の悪さは消えることはなかった。
 その後は新しいお酒を次々に注文しながら、とりとめのない雑談に終始した。舞子と隆一君がどのような関係まで行ったのか、ということを舞子が勝手に話し始め、わたしに当ててみるよう催促した。わたしは、その手の話は好きでも嫌いでもないので、適当に思い浮かんだことを言ったのだが、見事に当たってしまい、かなり冷や汗をかいた。後は、舞子の服に対する哲学的なまでのこだわりや、サークルにおいて如何にして楽しく過ごすかという秘訣、その他諸々を舞子が延々と語り続けた。酒が入っているせいもあろうが、本当に彼女はよく喋った。
 もっとも酒が回っているのは他の3人も同じで、隆一君は今にも眠りそうなくらい朦朧とし始めているし、アキラ君はいつもの通り、いまいち掴み所のない雰囲気を醸し出していたが、さすがに酔っているらしく、時々テーブルにどっかりと肘を突いて体を休めているようだった。わたしと言えば、正直な話、相当酔いが回っていて、意識はしっかりしているものの、歌でも歌って騒ぎたい気分だった。でも、このどこか気まずい雰囲気の中、わたしの高揚した気分が幾らか減殺されているのも事実だった。仕方がないので、隣に座っているアキラ君の首に腕をまわしたり、肩にもたれ掛かったりしてアキラ君をからかった。案の定、アキラ君は顔を真っ赤にして困惑していた。

 やがて時計の針は12時近くを指した。終電に乗り遅れないようにするため、わたしとアキラ君はそろそろ帰らなくてはならなかった。
「舞子達はどうするの?」
「やっだー。彩子ー。そんなこと訊かないでよー」と舞子は呂律の回らない口調で言った。
「あ、そうですか。それは野暮なことを訊いてしまいましたよ、舞子様。じゃあ、私達はそろそろ帰るから」とわたしは言って、テーブルの上で死にかけているアキラ君を叩き起こした。
「ほら、アキラ君、起きて。終電に乗り遅れるわよ」
「...ううん...。分かった。よし行こう...」と言ってアキラ君はのらりくらりと立ち上がった。
 しょうがないなあ、と思いつつ、アキラ君を引っ張って連れていこうとしたその時、突然アキラ君はこんな事を言った。
「...でも、やっぱり俺は自分のやり方を貫き通すよ...」
「え、何?アキラ君」
「俺は俺らしさを探し続ける」
 そういい終えたアキラ君は、再びぐったりとしてわたしにもたれ掛かった。やれやれ、仕方のないヤツだな、と苦笑しながら、わたしは彼を連れてその店を後にした。

 京阪電車の中にはこれからお酒を飲み終えてこれから帰宅するであろうサラリーマンや学生達が散在していたが、平日ということもあってかそれほど混雑してはいなかった。
 今日一日でいろんな事が起こったような気がしていた。だけどよく思い出してみると、当然のことなのだが、これといって特別な出来事は何一つない。朝、英語の授業に出席し、いつものベンチで文庫本を読み、アキラ君と会い、舞子達と酒を飲みに行く約束をし、アキラ君といろんな事を喋り合い、京都市内に繰り出して4人でまあ多少気まずい部分もあったにせよ、楽しくお酒を飲んだ。今日の全ての出来事はそれだけだった。わたしは電車に揺られながら、今日わたしの身に起こった出来事のうち、何がわたしに不思議な想いを抱かせるものなのか考えていた。隣ではアキラ君が気持ち良さそうに眠っていた。
 個性か、とわたしはさっきの話題を振り返った。わたしって一体何なのだろう...。
 わたし自身について必要以上に思いを巡らすことは、大学に入る少し前から止めることの出来ない癖のようになっていた。そして、それだけの月日を重ねても結局想いは何処にも辿り着くことはなかった。自分なりのスタイルを貫いて日々生きている。隆一君の言う、流れとか道の上に乗りたくはない。それに流される生き方もまた一つの生き方だとは思うけど、わたしはそれだけは御免だ。こんな風に多少頑固なまでのスタイルを持ってはいるが、これが個性かと問われると、かなり微妙なところだと言わざるを得なかった。こういう生き方をしている人だってやはり沢山いる。結局のところ、流れに乗らないという選択もまた一つの流れとして存在するのだ。スタイルを除けば、わたしなんて地味なものだ。誰かを振り向かせるほど眩しい煌めきなどはおそらくカケラほども持っていないだろう。
 さっきは思わずみんなの話を中断させてしまったけど、あの時わたしも何かを喋りたかった。でも頭の中でいろいろな思いが渾然としていて、いざ喋る段になると自分が話したいことは結局何なのか皆目見当がつかなくなっていたのだ。やがて再びみんなでこんな話をする時が訪れるだろう。その時は逃げずに立ち向かおう、とわたしは小さな決心をした。

 アキラ君がもたれかかってきて、わたしの肌と彼の肌が触れ合った。酔っているのだし、別に悪気等はないことは分かっている。優しい人だな、とわたしは彼のことを思った。次の瞬間、わたしは彼の頭をわたしの腕で軽く抱き、ゆっくりと彼の髪を撫でていた。何故だか分からないけど、ふと熱い何かが込み上げてきて、わたしにそうさせたのだ。

 結局近鉄線に乗り換えるために下車するまでの間、私達はそうしていた。彼はよく寝ていたし、わたしはその言葉にならない不思議な想いを抱え続けていた。乗り換えのため、電車を降りる直前にわたしは腕を放し、何事もなかったかのように「ほらアキラ君、乗り換えるよ」と叩き起こした。
 ホームに降りると、アキラ君は気持ち良さそうに伸びをした。
「もう丹波橋?」
「そうよ」
 近鉄電車の窓の向こう側には月光にうっすらと照らされた田畑がまるで人知れぬ夜の海のように果てしなく広がっていた。
「しっかしよく寝てたわねー」とアキラ君を見つめながら、いかにも呆れた声で言った。勿論さっき抱えていた想いは顔に出ないようにしながら。
「飲んでいて、途中から睡魔が襲ってきてね。ほら、今日はいろいろ歩き回ったり、ジョギングしたりして、少し疲労が溜まっているから」とアキラ君は眠たそうな声で答えた。
「え?じゃあ、別に泥酔していたわけでもないの?」
「結構飲んだし、今も相当酔ってはいるけど、意識はしっかりしている」
「うーん、さすがは道産子。恐るべし」
「おいおい、そりゃないよ」とアキラ君は苦笑した。「でもそういえば彩ちゃんもそれほど酔ってないみたいだけど」
「わたしもたぶんアキラ君と同じくらいの状態かな。何故か知らないけど、飲めてしまうのよ。あーやだやだ」
 でも二人ともかなり酔っていることには変わりなく、はたしてこんな状態で闇夜に覆われた「塀のない収容所」の中をわたし一人で帰ることができるのか、少しばかり不安ではあった。というのも、「最近痴漢が出没するから注意するように」と大学から注意があったし、あくまで噂に過ぎないがわたしが友達から聞いた話によれば、この町ではレイプ事件も過去に数件起こったことがあるらしい。町には街灯もまばらで、闇に満ちた竹藪の生い茂る丘が至る所に散在していた。そんな闇の中で待ち構えていた男によって何人かの女の子が犠牲になった。そういう話だった。
「またみんなで一緒に飲みたいな」とアキラ君が呟いた。あるいはそれは独り言だったのかも知れない。
 やがて、電車は駅に着いた。駅に降り立ち回りを見渡してみたが、果たしてそこには闇が広がり、街灯がもうしわけ程度に道を照らしているだけだった。考えてみれば、深夜にこの町を一人で歩いた事なんて全くなかった。というより、そんな危険な行為をする気には更々なれなかったのだ。
「ア、アキラ君。わたしを家まで送ってくれないかな。いや、無理だったらいいんだけど」と、わたしは思いきって彼にお願いをした。
「いいよ。こんなところを女の子一人で歩くなんて物騒だもんな」と彼は快諾してくれた。
「わあー、アキラ君ありがとう!」とはしゃぎながら勝手にアキラ君の手を取り握手を求めた。当然彼は困惑していた。
「で、彩ちゃんの家は何処?」
「...ハイツ」
「...ハイツ!?」とアキラ君は素っ頓狂な声を発しながら、それこそ倒れるくらい驚いていた。
「な、何でそんなに驚いているの?」とわたしは思わず心配になって訊いてみた。
「い、いや......そこ、俺も住んでいるんだ」と彼は呟いた。今度はわたしが倒れそうなほど驚く番だった。胸のあたりが苦しくなってきた。
「え、待てよ...。アキラ君の名字って何だったっけ?」
彼は自分の名字を答えた。
「ま、まさかそれじゃ、アキラ君が住んでいる部屋番号って...203じゃ...」
「うん、そうだけど。え、まさか彩ちゃんの住んでいる部屋って...202...」
「...うん」
 張り裂けそうなほどわたしの胸の鼓動が高まってきた。

 こういう話は、実は大きな学生マンションにはよくあることだった。わたしの場合、入居後、すぐに隣室に挨拶に行ってみたが、まだ越して来ていないらしく返事がなかった。その後、挨拶に行こう行こうと思っているうちに、入学式やオリエンテーション期間、講義開講と時は慌ただしく過ぎ去り、忙しく過ごす一方で挨拶のことをすっかり忘れ、そのうち面倒になってしまい、結局隣の人の顔も知らないまま、今に至っていた。隣室の住人について知っていることと言えば、よく弾き語りの練習を熱心にしているとうことくらいだった。名前にしても、表札を掲げている部屋は殆どなく、集合ポストに名字が書いてあるだけだったのでわたしはポストから配達物を回収する時に、ちらちらと隣のポストを見ているうちに、とりあえず隣人の名字を覚えただけだった。わたしはアキラ君のことを最初からアキラ君と呼んでいたので、彼の名字をすっかり忘れていた。おそらくアキラ君にしても似たようなものだろう。

 家につくまでの15分間、私達はお互いを妙に意識しあったまま言葉少なに歩き続けた。深い蒼に覆われた夜道は歩いていて確かに不気味ではあったが、今はもうそれどころではなかった。胸の鼓動は相変わらず高まったままで、隣にいるアキラ君に聞こえてしまうのではないかと心配するほどだった。夜風はそんなわたしの火照った頬を優しく撫でた。酔っているせいで、今置かれている状況について深く考え込む余力がなかったのがせめてもの救いだな、とわたしは思った。
「アキラ君」とわたしは彼に話しかけた。「この際酔っているから正直に言っちゃうけど、わたし、今すごいドキドキしてる」
「俺もだよ」といって彼は苦笑した。
 やがて、私達は家に着き、そのまま立ち止まっているわけにも行かないので、入り口のドアを開け、階段を上り、お互いの部屋の前までやって来た。
「じゃあね、アキラ君。おやすみ。よく寝なさいよ」とわたしはわずかにぎこちない声で言った。
「お休み、彩ちゃん」とアキラ君も言った。そして二人は別れた。
 部屋に入ると、わたしは音楽が聴きたくなったので、ビートルズの『赤盤』を棚から取り出し、2枚目の方をプレイヤーにセットした。そして小さな音量でそれを流した。ジョン・レノンが「help!」と叫ぶ声を聞きながら、やかんに水を入れて湯を沸かした。コーヒーがたまらなく飲みたかったからだ。湯が沸くまでの間、わたしは薄い壁一枚隔てた向こうにいるアキラ君のことを思っていた。不思議なものだな。私達はとても近くにいたはずなのに、壁の向こう側とこちら側で二人はそれぞれ互いの生活を送っていたなんて。こんなに近くにいるのに...。
「彩ちゃん?急にどうしたの?」とアキラ君はびっくりして言った。気がつくとわたしは彼の部屋の前でベルを押していた。
「今、インスタントコーヒー作っているんだけど...よかったらわたしの部屋に来て一緒に飲まない?」

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1999年1月 8日

第二章承前(2)

 熱いコーヒーを啜りながら、なんだか妙なことになってきたな、とわたしはまるで他人事のように思った。どうも最近のわたしは衝動で動いているような気がしてならなかった。でも、はたしてそれが好ましいのかどうかはわたしの理解を超えたところにあった。時間はぎこちなく流れた。ただビートルズだけが黙々と彼らの歌を歌い続けていた。
 アキラ君は落ち着かない気持ちを紛らすかのようにわたしの部屋のいろんなところをそれとなく眺めていた。その様子を見ていて、わたしはなんだか凄く恥ずかしくなってきた。
「でも、本当に驚いたよ。まさか彩ちゃんが隣でずっと暮らしていたなんて」とアキラ君がコーヒーカップを手に持ったまま感慨深く言った。
「全然気づかなかった?」とわたしは訊いてみた。
「ああ、全く。電話の声とかが聞こえてきたら分かったかもしれないけど、しーんとしていたから」
「まあね。あんまりここの電話使ったことないわね、考えてみると」
「地味な生活してるんだ」
「そう、地味な生活してるのよ」
「たとえば、本を読み耽ったり」と彼はわたしの本棚を眺めながら言った。そこにはわたしが大学に入ってから買い漁った本やCDがまだそれほどの数ではないけど並んでいた。
「そう、本を読み耽ったり」
彼はコーヒーカップに少し口をつけ、一呼吸置いた。「俺も読書は好きだよ」

 やがてスピーカーから「ノルウェイの森」が流れてきた。
「『ノルウェイの森』、か」とアキラ君は言った。
「わたしこの曲すごい好きなの」とわたしは言って少しだけボリュームを上げた。
「とても切ない話だったな」
「え?」
「いや、小説の方だよ。村上春樹の『ノルウェイの森』。彩ちゃん、まだ読んだことはない?」
「うん...」
「そっか。じゃあ、貸してあげるよ」と言って彼はわたしの部屋を飛び出し、30秒と経たないうちに文庫本と、そしてエレキギターを抱えて戻ってきた。
「はい、これ。暇なときにでも読んでみるといいよ。しばらく持ってていいよ」
「ありがとう」とわたしは彼から文庫本を受け取った。それは相当読み込まれているらしく、端々はボロボロになっていた。
「で、アキラ君。ギター持ってきたのはいいけど、何でエレキなの?」
「アコースティックは響きすぎて、夜に弾こうものならすぐに強制退去処分を食らうよ」と彼は苦笑しながら言った。「エレキはアンプに通さなければペラペラの音しか出ないから」そしてエレキギターを爪弾いてみせた。たしかにこの程度の音量だとだと夜に弾いても、うちのマンションならまず苦情は来ないだろう。わたしはCDプレイヤーを停止した。
「何か歌って」
「いいよ」そういって彼は「ノルウェイの森」のイントロを弾き、そして小さな声で歌い始めた。わたしはコーヒーを時々啜りながら、アキラ君の歌にじっと聴き入っていた。最後にはわたしもユニゾンで歌っていた。
「どうも酔っていて上手くいかんなぁ」と彼は照れながら言った。
「ううん、そんなことないよ。とても素敵だった」
「ありがとう」と言って、彼はすぐに次の曲を弾きはじめた。「tears in heaven」、エリック・クラプトンだった。
「すごーい、すごいじゃない。わたし、ちょっと感動しちゃったよ」
「静かな夜に酒でも飲みながら静かに弾くのが合うんだよ、この曲は」と笑いながら彼は言った。「ちょうど今みたいに」
「お酒、もうちょっと飲もうか」
 わたしは冷蔵庫の中から、安物の赤ワインを取り出し、二つの普通のコップにそれを注いだ。
「これだけ飲んだら、今日はぐっすり眠れそうだな。どうせ明日は午後まで授業はないし」
「そうだね」そして二人であらためて乾杯をした。

「彩ちゃん」と彼は右手でギターの弦を弄り、左手にコップを持ちながら言った。「こんな事訊くのは何だけど」
「なーに?何でも訊いてよ。酔っているんだし」
「さっき、舞子ちゃんが言っていただろ。彩ちゃんが頑なになって一人で居続けているって。あれ、本当なの?」
わたしはワインの入ったコップに口を付けながら少し考えた。「そうね、どうだろう...。あんまり自分ではそうとは思っていないんだけど、知らず知らず頑なになっているのかもしれない。...高校の時、一応付き合っている人がいたんだけど、ちょっと辛い最後だったのよ。そのことにまだケリがついていないっていうのかな」
「じゃあそのケリがつくまでは、もし男の人に告白されて、彩ちゃんもその人のことが気にかかっていたとしても、付き合うつもりはないの?」
「...そんなことはないと思う。ケリっていってもそれは時間が解決してくれるものだと思うし、わたしにはどうすることもできない...。それよりも自分の心に正直になって、今好きな人と一緒にいることの方が大切だと思う」
「そうか。じゃあ『昨日』とはこの歌を聴いてさよならだ」
 アキラ君はまたギターを弾きはじめた。「yesterday」だった。
 イエスタデイ...。わたしの心は鳥となって東京へ飛んでいった。そこではわたしはあの人と一緒にいた。とても楽しい日々だった。歌の通りだった。でも、別れは突然訪れた。正確には別れと言うよりは破綻と言うべきだろう。あの人は、結局わたしのことを知ろうとさえしなかったのだ。そう思うと、わたしの瞳から涙が一粒こぼれ落ちた。後は涙が雨のように止めどなく頬を濡らした。雨の中で鳥は何処にも飛び立つことができなかった。
「いつまでも『今日』という日に立ち止まっていては駄目だ。俺達は明日に向かって進まなければならない、たとえ今日という日がどんなに辛くても」
「...うん」わたしは溢れる涙を拭いながら肯いた。
「アキラ君」
「うん?」
「わたし、たぶんアキラ君のことが...好きなんだと思う」
「俺も彩ちゃんが大好きだ。俺は春からずっと山野彩子が好きだった」
「...本当にこんなわたしでもいいの?」
「何言ってるんだよ」
「アキラ君。今だけでいいから...わたしを抱いて。お願い」
彼はギターをベットの上に置き、わたしの傍に来て、そしてわたしを優しく抱き締めた。
「彩ちゃんに辛いことがあったら、俺がいつでも彩ちゃんを抱き締めるよ」
真夜中の静寂の中で私達はいつまでも抱きあっていた。

 

 不思議な夢を見た。
 仕事帰りや飲み会を控えた人で賑わう街を、わたしはアキラ君と二人で手を繋いで歩いていた。わたしは穏やかな嬉しさとでも言うべき感情で満たされていた。ふと目線を彼から前方へと向けると、わたしの少し手前に若い男の後ろ姿があった。とても見覚えのあるシルエット、あの人に違いない。わたしは思わずアキラ君の手を振り払って、前を歩いている男を目指して駆け出す。後ろで「彩ちゃん!」と呼ぶ声がする。わたしは走り続ける。でもどれだけ必死に走っても眼前を歩く男に追いつくことはなく、むしろどんどん遠ざかっていくように見える。最後には男は夜の闇の中へ消えた。わたしは走るのを止め、息を切らしながらその場にうずくまった。やや呼吸が整い、ゆっくりと立ち上がったところで何かがおかしいことに気付いた。そして次の瞬間、わたしは戦慄した。果てしない夜の草原の中、わたしはたった一人でたたずんでいたのだ。
 天空には無数の星が瞬き、地表の草は夜風に吹かれて優しく靡く。何処で服を脱いだのか、わたしは全くの裸で、わたしの肌は月光に照らされて青白く輝く。怖ず怖ずと辺りを見渡してみたが何もない。ただ月の位置から判断して遥か西の方向に森らしき暗黒が存在し、その中から一点の小さな光が放たれていた。家の灯りだろうか、とわたしは考えた。行ってみようと思い、歩き出そうとしたが、わたしは何故か今立っているところから一歩も動くことが出来ない。ただ、わたしの僅かな体の動きに合わせて、月光がわたしの肌に描く陰影が揺らめくだけだ。だんだん恐怖に飲み込まれるような気がしてきて、どうしようもなくなったわたしは叫んだ。でも如何なる音もわたしの口から発せられることはない。やがて、雲がゆっくりと次第に天空を覆い始める。そしてわたしの体もゆっくりと影に飲み込まれてゆく...。

 

 暑苦しくて目が覚めた。昼前だった。わたしは一人で、下着しか身に着けておらず、肌にはうっすらと汗を浮かべていた。昨日着ていたわたしの服が床に無造作に脱ぎ捨ててあった。あまり記憶は確かなものではないが、おそらくあれからわたしは服を着たまま眠ってしまい、あまりの暑さに寝苦しくて無意識のうちに脱いでしまったのだろう。もちろん彼との間には何もなかったのは疑う余地がなかった。彼は酔いに任せて女と寝るような人ではないはずだし、そもそも何もなかったという事実はわたしの体が誰よりも知っていることだからだ。
 机の上に、なにやら書き置きのような物が置いてあった。

彩ちゃんへ

おはよう
俺は自分の部屋に戻りました
不用心だから、彩ちゃんの部屋の鍵をかけておくね
鍵は俺が預かっているから、目が覚めたら取りに来て
             アキラより

 読み終えてアキラ君らしいなと思わずにはいられなかった。わざわざ鍵をかけてくれてありがとう。でも別にわたしの部屋に泊まっていっても良かったのに。
 パジャマを着て、カーテンを開けて、狭いベランダに出て外の空気を吸った。眼下では管理人のおばさんが相変わらず丁寧に掃除をしていた。
「おはようございます」
「あら、山野さんおはよう。今起きたの」
「ええ、ちょっと昨日遅くまで起きてて」
「なーに、また勉強してたのかい?頑張ってるねぇ」
わたしは思わず苦笑した。まさか、夜分遅くに若い男と二人でずっと抱き合っていましたなんてとても言えない。はい、わたしの部屋でです。いえ、それ以上は何もありません。心配要りませんよ。心の中でそんな台詞を管理人さんに向かって言ってみたが、吹き出しそうになった。わたしは「ええ、まあそうです」と適当に答えておいた。
 わたしはそのまま数分ほど風に当たり、外の景色を眺めた。いつもと変わらない田舎の風景だ。そして部屋に戻った。
 小さなテーブルの上には飲みかけのコーヒーとワインの入ったグラスが2つずつ並んでいた。わたしはそれらをキッチンに下げ、コーヒーを飲むためのお湯を沸かしている間に洗い終えた。
 コーヒーを啜り、トーストを囓りながらわたしはふと疑問に思った。何故、あの時「たぶん」などと言ってしまったのだろう?...言葉に出すまでは、わたしは自分の彼を想う気持ちに気付かなかった。いや、正確には気付くことを回避していたと言うべきだろう。昨日彼の隣で過ごしながら何度も感じた、じんとする熱い疼きのようなものは、彼への想いに他ならなかったのだ。アキラ君の音が、歌が、わたしの心に触れるまでは、わたしは自分の気持ちにさえ対峙することができなかったのだ...。まあいい。考え続けていても仕方がない。そう思い、わたしはシャワーを浴びることにした。
 シャワーを浴び終えて身支度を整えていると呼鈴が鳴ったので出てみると、そこにアキラ君が立っていた。
「ごめん、今行こうと思っていたの」とわたしは少しばつの悪い表情を浮かべて言った。「中に入る?」

 昨日のこともあってお互いに少しだけ緊張していたが、わたしはやはり彼の傍にいることでとても嬉しい気持ちになることができた。
「暑くて寝苦しかったと思うけど、よく眠れた?」とアキラ君がわたしに鍵を渡しながら訊いた。
「うん、ちょっと寝過ぎたけど。いつの間にか下着一枚になってたし」
「ええっ?」とアキラ君はかなり驚き、顔を真っ赤にしていた。
「ふふ、ホントにウブだよね、アキラ君って」と言い、それから訊こうかどうか少しだけ迷ったが、思い切って訊いてみた。「アキラ君って...付き合ってた人とかいるの」
少し間をおいてから「うん、いたよ。高校の時」とだけ彼は答えた。わたしはその続きを待ったが、彼は特に話す様子もなかったので、わたしはそれきりにして詮索するのをやめた。でも、気になるのも正直なところだった。彼のような人と一体どんな人が付き合っていたのだろう?どれくらいの期間?どんな付き合い方をしていたのだろう?知りたいことが泉のようにこんこんとわたしの中から湧き出てきた。
「さ、俺、そろそろ学校に行くよ」と彼はおもむろに言って立ち上がった。
「うん、行ってらっしゃい」

 それからの日々は疾風の如く過ぎ去った。アキラ君は勉強や音楽に励む日々を過ごしていた。彼は割と家を空けることが多かった。彼とよく話すようになって知ったことなのだが、彼は音楽仲間達と週に何度か京都市内で集まって練習をしているらしい。それだけ音楽に打ち込んでいる一方で、学業も決して怠ってはいなかった。「俺、それなりに勉強したくて大学に入ったんだから」と彼は笑顔で答えた。そんな風に多忙な一日の活動を終えたあと、彼は必ずわたしに会いに来てくれた。疲れは僅かにその顔に浮かんでいたが、それでも彼はとても楽しそうにわたしと会話した。もっとも友達だった頃と何らかわりのない会話で、それがすこしだけ歯がゆいと言えなくもなかった。あの夜のことは夢だったのだろうか...?舞子も隆一君もそれぞれに日々を忙しく過ごしているようだった。わたしはといえば相変わらず一心不乱に『それから』を読み耽っていた。

 例の英語のクラスで、7月の中旬に英文のレポートを提出することになった。
「一緒に勉強しようか?」とアキラ君が提案し、私達は毎夜どちらかの部屋で文献やら英和辞典やら飴玉やらを机の上に散りばめながら勉強するようになった。
「まったくとんでもないレポートよねぇ」
「うん、まったくだ。英文でレポート用紙5枚なんて、他のテスト科目の勉強もしなきゃならないのに辛すぎる」
 などと言いながらやはり心の中ではお互いに夜を待ち望んでいたのだろう。毎日会話ばかりが弾み、肝心のレポートの方はさっぱり完成しそうになかったからだ。おかげで、三日前からは、殆ど徹夜で作業をする羽目になった。

 「やれやれ、やっと終わった」とアキラ君が深い安堵の息をついたのはレポート提出日の午前三時のことだった。その時は、私達はわたしの部屋で執筆作業を行っていた。蒸し暑い夏の夜のことだった。
「お疲れさまでした」とわたしは言って彼と握手をした。
「彩ちゃんこそお疲れさま」
「うん」
「よし、祝杯を挙げよう!彩ちゃん、冷蔵庫に何かお酒入ってる?」
「ちゃんと入ってるよ、アキラ君用にビールがいっぱい」と笑いながら言って、わたしは冷蔵庫から缶ビールを二本取りだし、一本を彼に差し出した。
「乾杯」とアキラ君が言った。
「何に向かって乾杯?」
「そりゃ勿論けなげに頑張った二人に、だよ」
「他には?」
少しの間彼は黙った。黙っている間に彼の耳が見る見る赤くなっていくのがよく分かった。
「...一ヶ月。二人が付き合い始めてから一ヶ月を記念して...乾杯!」
「乾杯!」
「もう、彩ちゃんは意地悪なヤツだなぁ」と言って、アキラ君は照れを隠すかのようにビールを半分くらいまで一気に飲んだ。
「ふふふ、意地悪はわたしの専売特許よ」
 そう、あの夜からちょうど一ヶ月が過ぎたのだ。

 

 午前3時の静寂の元では全ての生き物が息絶えたように感じる。
 黙っていると何も聞こえない。窓の外には闇しか見えない。勿論此処の建物の中でもまだ多くの住民が起きているのだろうし、世間に目をやれば、働いている人だって沢山いるだろう。それでも、時すら虚ろに流れるこの闇の中では、わたしは生の存在を想像できなかった。全ては死に、わたしは何処でもない空間の中にいる。

「何を考えているの?」
「ん?」とわたしは驚いて言った。いつの間にかわたしは自分の世界へ引き籠もっていたのだ。
「いや、なんかぼーっとしていたもんだから」
「ごめん、ちょっと考え事をしていたもんで」とわたしは謝った。そして、考えていた「夜の闇」のことについて舌足らずではあるが説明した。
「ふうん、夜の闇か。たしかに午前3時の静寂はちょっと特別かもしれない。まあ、此処があまりに田舎すぎるせいもあるだろうけど」
「時々、怖くなることがあるの。みんな死んでしまって、わたしだけがこの世界に取り残されてしまったんじゃないかって...」
「おいおい、勝手に皆殺しにするなよ」と彼は笑っていった。「そんなことはこれからは考える必要はないよ。大丈夫。少なくとも俺はこうして生きているじゃないか」

 結局そのまま私達はわたしの部屋で飲んだくれ、二人して雑魚寝してしまい、起きたのはゆうに正午を回っていた。レポートの方はどうにか提出まで漕ぎ着け、2週間程の前期試験日程も、幾ばくかの不安要素を残しながらも無事終了した。
 私達はと言えば、お互いに相変わらず妙な初々しさを醸し出してはいたが、この一ヶ月の間、殆ど毎日一緒にいたわけで、しかも生活の場である「部屋」という空間の中で時を過ごしたせいか、とても密度の濃い日々を過ごし、急速に親密さは増したようにわたしは感じていた。おそらく彼にしても同じだろう。
 大学は夏休みに入り、マンションに住む学生達も徐々に帰省の途についたようだった。窓からほの見える部屋の明かりが一つまた一つと減り、おかげであたりはますます暗い場所になった。
「じゃあ、私達二人で旅行に行ってくるから」と舞子は言い残し、隆一君の運転する車に乗って早々と京都を離れた。「彩子。あんた達も二人で何処かに行ったらいいよ。後日談期待してるからね!」

 その夏、わたしはあてもなく彷徨っていた。特に行き先も決めず、予定も立てず、その時々の思いに身を任せて何処か遠い場所へと旅したのだ。

 一人旅に出たいというわたしの意志を打ち明けたとき、彼は少なからず驚き、また落胆したようだった。7月も終わろうとしているある夜のことだ。日が墜ちても熱気が退くことはなく、部屋の中でじっとしていても肌には玉のような汗が滲んだ。
「俺も一緒に行っちゃ駄目かな?」
「ごめんなさい。わたし、大学に入ってから一人旅をするのが夢だったの...」
 アキラ君は何も言わずにビールを一気に飲み干した。さすがのアキラ君といえどもわたしの不可解な決意に困惑しているようだった。
「ふらふらとしながら、一人でいろんな事を考えたいの」
 話しながら、わたしは一体何を言ってるんだろうと思った。わたしは何でこんな馬鹿なことを言っているのだ?
 結局彼はわたしのわがままを承諾してくれた。
「9月にまた会おう。そして後期が始まるまでに俺と一緒に何処かへ行こう」
 アキラ君は棚からCDを取り出し、プレーヤーにセットした。エンヤの「Evening Falls...」だった。なんだかあまりに時季外れな音楽だったけど、その幻想的な音はうだるような暑さを幾らか忘れさせてくれた。
「この曲を聴くと、なんだか鍾乳洞の中にいるような感じがしてくるの」
「暑くて耐えられないときはこの曲をリピート再生すると良いんだ」と彼は笑って言った。
 いい人だ、と思わずにはいられなかった。あの日以来言葉に出すことはないけれど、彼の想いは湖面を伝う波紋のようにわたしの心に絶え間なく届いた。それでいて束縛することなく、まるで絹のローブのように優しくわたしを包んでくれる。それなのに、わたしは一体何をやっているのだろう...。

第二章承前へ